保湿系トライアルセット

 30.5

新と千早の大学生活:30話別展開



 「……」
 日曜。近所のスーパーで買い物を済ませて帰ってきた新の顔が曇る。
(……何しに来たんや。こないだ、あんだけはっきり断る、って言うたのに)
 交際の、と言うより千早から自分に乗り換えて欲しいという申し出を一刀両断にし、本人も感情的に怒鳴って走り去った筈の伊勢が自分の部屋の前で扉に背を凭れさせて立っているのが見えたせいだった。
 相模経由で好きなタイプという問いに対する新の答えは聞いている筈なのに、一番好きなかるたの事は何一つ言わず、かるたと同じだけ好きな千早の見た目にしか言及しなかったアプローチはどうしても受け付けない。アパートの住所自体は部の名簿でも見たのだろうが、押しかけてくるとまでは思っていなかった。

 「はぁ……めんどくさい人や」
 そのアプローチの際に、千早の容姿ではなく、かるたに懸ける姿勢と真っ直ぐさが好きなのだと言い切ったのに、と気分が沈む。
「巽先輩なんか、入部初日に分かってもたのに」
 次元が違う、と巽は称していた。ずっと一緒にかるたをするという子供の約束のような事を言っているのに、二人の間にはすでに将来を約束しているような空気があった、と、名人とクイーンを目指し、一緒に生きていこうとする自分達にとって一番嬉しい事を言ってくれた。だから余計、それを聞き入れずにコンパやカラオケ───耳を大事にしたい競技かるたの選手として、一番受け入れがたい話ばかりで接近を図る伊勢に辟易してしまうのだ。
 そうは言っても路上で立ちつくしている訳にもいかない。重い溜め息を吐いてから新はポケットの中を探る。すぐ解錠できるように部屋の鍵を予め片手に持って、買い物袋も身体に沿うよう持ち直すと、試合の時のように気持ちを引き締めて自室へと歩を進めた。

 「あ……綿谷」
「何か用事ですか、伊勢先輩」
 三年前、かるたが取れなくなっていた頃、千早と太一を手酷く追い返した時のような低く固い口調で新は短く問う。巽からは挨拶を欠かさないよう忠告を受けていたが、正直「先輩」と呼ぶのも煩わしい気分だった。
「謝ろうと、思って。……この前の、こと」
「……なら、今それもう聞きましたから。失礼します」
 何か言葉を継ごうとしたらしい伊勢が扉の前から少し離れた時、新はドアを解錠して細く開くと、その隙間に一気に身体を滑り込ませて素早く施錠した。けれど呼び鈴が何度も何度も押され、新は心底うんざりした気分でドアチェーンを掛けてから玄関の鍵を開けた。
「ね、お願い。ちゃんと、顔を見て謝りたくて、来たの。……お願い」
「帰ってください。それ言うためにドア開けただけです」
 にべもなく言ってドアを閉めようとしたが、伊勢の靴が隙間に差し込まれて扉を閉めるに閉められない。鉄扉が動くのを押さえる伊勢の指先に、伸ばした爪が見えて新をさらに苛立たせた。
(……謝りたいんやったら、練習場でもいいやろに。……って言うか、かるた部に居るのに何で爪伸ばしてるんや。取る気ないって言ってるも同然やろ……)
 何か別の理由があるのかと疑問がよぎったが答えがまるで思い付かず、新は買い物袋を台所の床に置いて、和室の襖をぴったり閉めてから鞄に入れておいた携帯電話を取り出した。

 『はい、巽……って、綿谷か。何か面倒事とかあった?』
 これまで色々相談に乗ってくれた巽はやはり察しが早い。買い物から帰ったら部屋の前に伊勢が居て、謝りたいから中に入れろとドアの隙間に靴を差し込んでまで言ってきている、と新は小声で簡潔に状況を話した。
「……謝りたいだけやったら、部活ん時でもいいのにって思うんですけど、うちまで来る他の理由って全然思い付かんくて、先輩に電話させてもろたんです。すみません」
『あー、なるほどな。……既成事実作ろうって実力行使に出たか』
 巽は苦笑混じりの声で、強引にでも新と関係してしまえば、千早に対して自分は新と寝るほど「親密な」仲だから手を引けと言える、と考えたのでは、と説明してくれた。だから部屋に入れてくれと言うのだろう。この間も呼び鈴が何度か鳴り、ドアの隙間から伊勢が鍵を開けて欲しいと甘えたような声で言ってきていた。
『露骨な言い方だけどさ、無理矢理にでも扱かれりゃ、綾瀬一筋のお前でも一応は勃つだろうし』
 確かに男はそうした物理的接触で、意志に背いて反応してしまう。新は溜め息を漏らした。
「諦めて帰るの待つしかないですか……」
『ま、それが一番無難だろうな』
 礼を述べて電話を切ると、すぐさま着信が入る。ディスプレイを見た新は素早く「通話」を押した。

 「……千早? どしたんや? ……って言うか今どこや?」
 電話の向こうのざわつく物音で千早が自宅以外の場所から掛けてきたと分かり、新は小さな声で尋ねた。千早のずば抜けた聴力ならそれで十分聞き取れるだろう。
『新んちの近くのコンビニ。そっち行こうと思ったんだけど、伊勢先輩立ってるの見えたから』
 迂回してコンビニに行き、すぐ電話を入れてみたが話し中だった、と言う千早に、巽に相談していたと新は手短にその内容を告げた。
「おれ、そっち迎えに行くわ」
『やめた方がいいと思う』
 新が部屋から出たら、彼女は付いてくるだろうし、もしかしたらその隙を突いて部屋に上がり込んでしまうかも知れない、と千早は答える。そうなれば新も部屋に戻れない。
「ほやけど、千早が入られんが……? ドアんとこ来たら絶対なんか言うやろ、あの人」
『うん、裏に回って窓から入ろうかなあって。新んち一階だし、窓枠そんな高い位置じゃないし』
 千早の言葉に一瞬新は呆気に取られた。
『先輩、新が一人だって思って押しかけてるんだよね? だから』

 この状況で新の買い物中、千早が留守番をしていたと分かれば、部屋にまで押しかけてくる伊勢に対する反撃になるのでは、というのが千早の案だった。千早自身、妙な思惑でかるたに集中出来ない現状に辟易していたせいもあって、退けられる物事は片付けてしまいたいと思っている。
「……分かった。ほんなら窓の鍵、開けとく。ここの裏通れるけど、見つからんようにの」
『うん』
 奇策と言えば奇策だが、確かに部屋に上がり込み既成事実を作ってしまいたいらしい伊勢への大きな牽制になるだろう。新はそっと立って部屋の窓を静かに解錠した。
(思い切った事考えついたもんやなあ、千早……)
 自分なら大家か警察を呼ぶぐらいしか思い付かないが、それだと伊勢が「自分は彼女で、喧嘩した事を謝りに来た」とでも言ってドアを開けさせるかも知れない。新は千早のその発想に感心する。

 しばらくして窓枠が小さくノックされ、千早が着いたと分かる。新が音を立てないよう注意深く窓を開けると、運動神経のいい千早は鉄棒に身体を乗せるような軽さで窓枠に上半身を置いた。
「新聞敷いてあるで。靴のままでいいざ」
「ありがと。……よ、っと。お邪魔しまーす」
 窓枠から上がり込むのに、普段通りの挨拶を口にする千早につい新は吹き出してしまう。気にした様子もなく、新の手を支えに千早は新聞紙の上にそっと降り立って靴を脱ぎ、元通り施錠した。

 「新、外歩いて喉乾いたよね。お茶でも淹れよっか? 私」
 襖を開けに行った新に先んじて千早が言葉を発し、その顔を見て新も意図が掴めた。大して広くないこの部屋の間取りは玄関からキッチンが見える。襖を閉めた和室から二人が揃って台所に顔を出せば伊勢にも分かるだろう。
「おれも買ったもん冷蔵庫入れんとな。ほんならお願いするわ。……あ、留守番してくれてありがとうな」
 いつもより少し大きな声で新は答え、ちょっとだけ悪戯めいた笑みを千早に返した。
「全然? 札流ししてたから。……あ、でも没頭してドア開けたの気付かなかった。ごめんね」
 彼女も新に同じような表情を見せて、台所へ向かう。新はすぐにその後を追った。
「いつも思うんだけどさ、新ってほんと買い物上手だなあ。……このシール、タイムセールだよね?」
 ヤカンを火に掛けて、新が冷蔵庫の前にしゃがみ込み、買ってきた物を仕舞う様子を見ていた千早が感心したように言ってくる。「買い物上手」は時折千早が口にしていたから、その言葉に不自然さは全く感じられなかった。
「うん。……まあテレビで見るんたな、人の山掻き分けて、って訳でないけど。……って、何か想像したやろ、今」
 千早の肩が細かく震えているのに気付いた新は即座に突っ込む。堪えきれなくなったのか、千早は明るい笑い声を立て始めた。それを聞きつけたのか、玄関の鉄扉が感情的に閉められたように大きな音を立てる。新は立ち上がり和室に置きっ放しだった千早の靴を手に、素早く玄関扉の鍵をかけて台所に戻ってきた。
「……諦めたんやろか? ほやったら、いいんやけど」
「まだ分かんないね。けどまあ折角だし、ほんとにお茶淹れようっと」
 くるりとコンロの方に向き直った千早の姿がやけに艶めかしく見え、新は背後から素早くコンロの火を消して千早を抱きしめた。



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written by Hiiro Makishima