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その日の授業は特に何事もなく終わり、新と千早は連れ立って練習場へとやってきた。 「失礼します」 一礼して中に入るが、来ているのは二年生数人だけだった。その中に相模の姿があったのは少々驚きだったが、出水に合コンをセッティングしてもらえそうで千早に敵意を向ける必要もなくなった、という事だろうと新は考える事にした。 「綿谷、綾瀬……ちょっといい?」 着替えて出てきた所をその相模に捕まってしまう。 「……何でしょうか」 「伊勢の事、ちょっと小耳に挟んだんだけど……。綿谷達にもかなり迷惑かけちゃったね、ごめん」 変わり様に内心驚きはしたが、野球部か小野達のどちらかから話が伝わったのかも知れない。 「いえ、新入部員も来てくれましたし、かるたに集中出来ればおれらはそれでいいです」 それは掛け値なしの本音だ。二人は会釈して話を切り上げ、ストレッチを始めた。 「あ、し、失礼します……」 緊張しきった顔で三室が練習場に入ってくる。自分達は入部当日に名乗ったため、部員に紹介されたという事はなかったが、途中入部の三室は誰かが今いる部員に紹介しないといけないだろう。 「……今日って巽先輩まだなんやなあ。……おれらで紹介してもうていいんやろか」 「三室くんと面識あるの私達と巽先輩だけだしね。一応、先輩に聞いてみよっか」 その事は千早に任せ、新は三室に着替えるよう伝える。 「もう、次からは更衣スペース使っていいかどうか聞かんと、空いてたら使っての。後で先輩らに紹介するんやと思うんやけど、今千早が確認に行ってるで、着替え済ませたら畳んとこ来て」 「は、はい……」 三室が更衣スペースに消え、入れ違いに千早が戻ってきて三室の紹介は自分達に任せると二年生が言ってきたと伝えてきた。 「ん、分かった。ありがとの」 頷いてから、ふと気になって新は口を開く。 「千早、三室くんの練習メニューって何か考えてある? 百首覚えきるまで見学じゃキツいやろうし」 「……うん、まあ瑞沢でやってた事と似てるけど。札貸し出し出来るなら、家で札流しと素振りしてもらうのと、初期配置覚えてもらうのは出来るかなあ。……札の事は原田先生にお願いしてみようか?」 着替えを終えた三室が出てきた所で一旦話をストップさせ、三人で読手用の机の側に向かった。 「先輩方、ちょっとこっち来てもらえますかー!」 千早がよく通る声で二年生を呼ぶ。だらだらとした動作だが、それでも一応三人の近くに腰を下ろしてくれた。新は一礼してから口を開いた。 「新入部員を紹介します。建築一年の三室祐くんです。先輩方もご指導よろしくお願いします。……三室くん、挨拶して」 「は、はい。……あ、あの、三室です。ほんとに初心者でご迷惑おかけするかも知れませんけど……よ、よろしくお願いします」 三室は緊張しきって汗びっしょりになりながら頭を下げる。散発的な拍手がぱち、ぱちと鳴った。 「ところで先輩、練習場の札って貸し出し可能なんですか? 大丈夫なら、三室くんが自宅で札流し出来るように一組貸してあげたいんですけど」 「どうだっけ? ワリー、俺自分の持ってるから借りた事ねえし、分かんねえ」 二年生の誰かがそう答えてきた。考えてみれば札の貸し出しは、かるたを始めたばかりで家に札がない時ぐらいのものだ。 「そうですか」 千早が言った通り、原田先生に初心者用の札を貸してもらえるよう頼むのが一番早そうだった。 三室の紹介を終えると皆適当に畳のあちこちに散っていく。 「三室くん、あれからプリント大分覚えられたやろか?」 「そ、それがなかなか……覚え切れてないんで、今日も持ってきたんですけど」 三室は恐縮したように答える。 「ほんなら、プリントも持って一緒に来てくれるか?」 新は三室を伴って取り札が仕舞われている棚に向かうとそこから一箱を持ち出してきた。 「今からやるのは『札流し』って言うて、普段から反復してやって欲しい事なんや。札認識速度、まあ簡単に言うと取り札見て決まり字分かるようにする練習やの。同時に取り札の字の並びとかの特徴も覚えていけるでさ」 C級ぐらいになると、百枚の決まり字を一分以内で読める。だが三室が萎縮するといけないと新は敢えてその事を伏せ、取り出した札をシャッフルし、大雑把に四つの束に分けて三室の前に積む。 「最初はゆっくりでいいし、思い出せんかったらプリント見ていいけど、最終的には全部頭に入れての。……昨日言うたか分からんけど、百首覚えてえん事には試合にならんし。一日も早う、三室くんが最初の一枚取れて嬉しいって思えるようになって欲しいしの」 「は、はい」 三室がこわごわ取り札を一枚手にする。しばらく無言でその札を眺めたあと、ようやく一句目が口をついて出た。 「うん、その調子や。どんどん行こっさ」 「……新」 やって来た千早が目線で練習場の入口を示す。新も顔を動かさず視線だけをそちらに向けると、伊勢が険しい顔で立っているのが見えた。 「ん。……まあ、大丈夫やろ」 小野達があれからどうしたかは知らないが、伊勢が部に顔を出しているという事は余計な手出しは控えてくれているのだろう。いずれにせよ野球部にも伝わっている事だからと、新は敢えて気にしない事にした。 「あっと、本題それじゃなかった。……対戦表出てるって言いに来たんだった、私」 「ありがと、見てくるわ。三室くんの札流し、見てたげてくれるか?」 新は一度立ち上がり、対戦表をチェックする。 (二試合目に、千早とか……ほやけど、どうしよっかの) 試合中は当然だが三室の練習を見てやれない。ふと周囲に目をやると、相模たちと伊勢の間に微妙な空気が流れているらしかった。 「……相模先輩、ちょっといいですか」 新は相模を呼び止めて近寄る。 「先輩、最初抜け番みたいやし、三室くんに初期配置の仕方とか教えたげてもらえませんか」 「え、あ……いいけど、彼、配置もまだ出来てない子なの?」 「まあ……学祭の試合見て興味持ってくれたらしいんで、今百首暗記と札流し中です。おれらだけでは手も時間も足りんくなりそうやし、手伝ってもらえると助かります」 新が頭を下げると相模はふうっと息を吐き出してから分かった、と答えた。 一試合目を早々に終わらせた新は、畳の隅に居る相模と三室に視線を送る。意外に相模は細やかな指導を行っているようだ。 (おれらは最初の印象があれやったけど……ああいう事絡まんかったら、案外いい先輩なんかの……って、呼んでるの、おれか?) 札から顔を上げた相模が手招きをしている。足音を立てないよう隅へ移動すると、相模は詠みの合間に小声で言ってきた。 「綿谷と綾瀬、選手権の個人戦出るんでしょ。大会終わるまでこの子、あたしが教えとくからアンタ達練習しときなよ」 「え、ほやけど先輩かって自分の練習せんと……」 「……まあ、迷惑料? この前伊勢に頼まれた質問あったじゃん。あの答え聞いて、あたしも伊勢と大差ないなーってさ。それに三室に教えてたら、あたしも忘れてた基礎とか結構思い出せて。……しばらく没頭してたいかなって」 相模の表情からは力みが綺麗に消えていた。 「ありがとうございます、先輩」 「任せて。……さて三室、続きやるよ?」 「あ、はい」 再び札に向き合う三室と相模を見ているうちに、新の肩がすっと軽くなったような気がする。自分の試合が終わった千早がいつの間にか側に立っていた。 「十五分休憩ー」 練習場内のあちこちからほうっと息を吐く音が聞こえてくる。新と千早は三室を誘って自販機スペースに出た。 「どうやった? 相模先輩」 「え、はい。あの、分かりやすかったです。それで、えっと、先輩が持ってる札も貸してくれるって事になりまして」 三室の表情もだいぶリラックスしているようだ。新はさっき相模が告げてきた話を千早にも話す。 「ほんと? ……良かったあ。ねえ新、少しずつ広がっていってるよね。私達が好きな、かるたの世界」 「……うん。分かってもらえるって、嬉しいの。三室くんも強なって昇級していくやろし」 新は空を仰ぐ。もう初夏といっていい空が綺麗に晴れ渡っていた。 「よう、綿谷に綾瀬。見学に来たけどいいかな」 声がした方を振り向くと、山部と浅司が笑いながら立っていた。最初ロッカールームで見た時から比べれば、浅司の表情は別人に思える程明るくなっている。 「あ、こんにちは。今ちょうど合間の休憩中なんですけど、中入る時一緒に行きましょうか」 「って言うか昨日の今日やのに、もう来てくれると思ってませんでした。ありがとうございます。……あ、そうや山部先輩。この三室くんて先輩と同じ建築学科やそうです」 三室が緊張しきって頭を下げると、山部がよろしくなと言いながら、ぽんとその肩を叩いた。 「ぼちぼち中戻ろっか。先輩らもどうぞ」 五人で練習場に戻ると、浅司の顔を知っているのか二年生達がざわついている。 「……あれ、山部じゃん? なにお前、綿谷たちと知り合い?」 山部と顔見知りらしい先輩が話し掛けてきた。 「まあな。んでちょっと試合見せてもらいに来たとこ。ウチの浅司先輩は知ってんだろ? ……あ、これ差し入れな」 野球部の二人が畳の隅に腰を下ろすと、練習場を飛び出す足音が一つだけ響く。だがそれに驚いたのは二年の男子と事情を知らない三室だけで、相模さえもが呆れたように戸口を見、開けっ放しの扉を閉めにいった。 「何か、いきなりお騒がせしてしもた感じですね」 「……気にするな。俺らが悪い事した訳じゃないし。それより綿谷、かるたの『心技体』見せてもらうぞ」 「はい。いい試合出来るよう頑張ります」 浅司は新が昨日言った事を覚えていてくれたらしい。一礼して畳に向かうと千早と向かい合って腰を下ろす。扉を閉めた相模が三室を促して山部達の横に座らせた。 札を並べて暗記に入る。もっともお互いの配置をよく知っているだけに、覚えきるのにもさほど時間はかからない。開始二分前になり、千早はいつも通り素振りを始め、新は薄く目を閉じて懐かしいアパートに自分達二人の姿を置く。 「───よろしくお願いします」 読手の合図で揃って一礼し、序歌の下の句が詠み上げられる中、二人は構えに入り集中力を高めていく。緊張感が最高潮に達した瞬間、畳を打つ音が場内を揺るがせた。 |