保湿系トライアルセット

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新と千早の大学生活:2nd match



 午後に入ってからの練習場からは余計な物音が完全に排除された。
 昼食時間に須藤が読手の巽に対し意図的にアピールした、新や千早には過去の大きな大会を通じて学外の強い選手達との交流や、新が永世名人を祖父に持っている事で協会関係者からの期待が大きい事などが他の部員に伝わったのか、午前中雑音を立てて試合の進行を妨げた者の姿が客席から消えていた。
 また練習場の入口扉に、「歌が詠まれている間は音を立てない」という手書きの注意書きが掲げられてもいた。
 筆跡に見覚えはなかったが、恐らくは巽から話を聞いた先輩の誰かだろう。
 ただそれでも三笠だけは相変わらず不機嫌な顔で客席に座っていたのだが。

 試合進行に妨げがなくなれば、二人は持てる力を十全に発揮する事ができる。また札を読み上げる巽も邪魔が入らなくなった事で場内に朗々と声を響かせ、専任読手を目指す奏を大いに驚かせていた。
(……巽先輩、楽しそうに詠んでる。……専任読手さんの声とはまた違うけど、伸びやかで……音楽を聴いてるみたい)
 これまでの練習では耳にした事がなかった巽の声を掴むまで、二試合目序盤の千早は新にリードを許したものの、詠みに耳が合い出してからは新の「超加速」でさえ間に合わない程の取りが出てきた。
(追い上げてきたなあ、千早。……先輩の詠みと相性いいみたいやし……)
 千早が速さを見せれば、新もまた稲妻が閃くような渡り手で対抗する。札が飛ぶごとに客席からどよめきが波のように広がっている。

 「───ち」
(……しもたっ!)
 一試合目で逃した「ちは」に、千早の指先が音もなく触れた。札を拾って戻ってきた彼女の瞳は強い光を湛えている。
「……失礼します」
 一番の得意札を取った千早をリズムに乗せまいと、新は席を立って襷を直しながら、素早く考えを巡らせる。
(慌てる事ない……流れはほんな悪ない。千早のリズムを乱せる札かって、まだある)
「失礼しました」
 席に着いて一礼し、深呼吸をしてから軽く息を止めて巽の呼吸に神経を集中させる。音ではなく、音が形作られる直前の微かな気配を捕まえに行った。
「───」
 ほんの僅かな歯擦音と同時に、新は飛び出して千早陣の右下段を果敢に攻めた。
「──をはやみ──」
「……っ?!」
 的中した読みと新の加速が合わさった取りに千早が一瞬息を詰めた。
(……流れを読み切って、呼び込んでる。……やっぱり凄いな、新)
 新は強い。だからこそ新に勝ちたいという強い想いが千早の裡に改めて沸き上がる。

 以前の千早にとって新の存在は「追い掛け、追いつきたい背中」だった。けれどこうして競技線を挟んで対峙できるまでになった今は違う。
(もう、追い掛けるとか追いつきたいだけじゃない。……隣に立って、一緒に進むの)
 はねた札を手に対面へ正座しなおす新を千早はまっすぐに見つめた。表情は試合開始前とあまり変わらなく見えたが、短く刈り込んだ髪の先が汗で濡れている。新をずっと格上の相手だと思ってきた頃はそこまで気付かなかったかも知れない。
「……」
 一方の新も汗で眼鏡が気になるのか、札を送る前に眼鏡を外し、手元のタオルで顔を拭った。ふと気配を感じて眼鏡を掛け直すと、向かいに座って送り札を待つ千早が自分をじっと見ている事に気がついた。
(敵に回ると、千早はほんと手強いな……速さとか技術とか言う前に、かるたが好きやっていう気持ちが強さに繋がってるんや。……厄介やけど、嬉しい。ほやで、楽しい……千早も、ほうなんやろ?)
 千早の揺らがない視線を受けて立つように、新は札を差し出した。

 昼休憩の間に何があったのか、同学年の奥山が急に体調が悪くなったと言い出し解説役を代わった出水は巽の横で正座したまま驚きを隠せずにいた。目の前で全力を振り絞って戦っている二人だけでなく、読手の巽までが生き生きと朗詠している。
(大したもんだ……入部して二月かそこらなのに、この二人の本気で、もう部の空気が変わり始めてる……人が、動き始めてる……)
 入部したA級選手がすぐに退部していった理由を、出水は殆ど知らない。なにがしかの面倒事が起きて辞めているのだろうとは部内の噂で薄々分かるが、巻き込まれるのも迷惑だからと敢えて関わらなかった。
(去年も今年も、気をつけろって言いはしたが……そんなもん、一応警告はしたから後は本人次第だ、そう思ってりゃ俺が楽だったってだけだ……)
 去年だって、もっと出来る事はあったのかも知れない。出水は恥で身体が燃え上がりそうな気分に襲われた。
(……いや、今からでもやれる事はきっとある。去年の部員に対しては俺に何が出来るかまだ分からんが……)
 練習場の中央で鎬を削る新と千早、そしてその二人のために札を詠む巽。彼らにはもう何も起こさせない、と出水はぐっと拳を握って自分に誓った。

 「───ありがとうございました!」
 全員が固唾を呑んで見守る中、二試合目が終わる。礼を終えた二人が顔を上げた時、新は手元に二枚を残していた。
「すげぇ、綾瀬! 逆転勝ちしやがった!」
 西田が感嘆の声を上げる。小学生の頃の全国大会で二年続けて新に敗れ、一時かるたを諦めようとした事がある彼にとって、自分よりかるた歴の浅い千早が新に逆転勝ちしたというのは大きな励みにも思えた。
「……では一時間後に本日の最終戦を行います」
 出水が立ち上がり、一時間の休憩を告げると会場内の空気がようやく和らぐ。だが新は正座を崩さず、すぐに立ち上がろうとはしなかった。
「……綿谷? ……うぉっ?!」
 どうかしたのか、と声を掛けに近寄った出水だったが、試合に負けた後の新が浮かべる鬼の形相を初めて目にして思わずたじろいでしまった。逆に瑞沢の元部員達はその辺りも見慣れているのか、二人の側に歩み寄って腰を下ろす。

 「……はー……やられてもたわ」
 太一達が近寄ってきた事に気がついた新がようやく表情を戻す。
「お疲れ、新。最後のはさすがにキツかったろ」
 千早が「なにわえ」、新の陣に「なにわが」と綺麗に分かれての最終局面で詠まれたのは千早陣の「なにわえ」だったが、詠みの音だけでなく「それ以上の何か」を感じ取れた千早に決まり字前に札を押さえられてはもうどうにもならない。
「うん、まあ……負けは悔しいんやけど、ほんでも凄く楽しいのぉ」
 新のその気持ちは太一もよく分かる。きっとそれはお互いに全力だからだ。
「そう言や、気付いてたか? 途中から、外で見てるギャラリーすっげえ増えてたけど」
 太一がそう言うと、新は「飛ばした札を取りに行った時にちょっと見えた」と答えたが、逆に千早は驚いている。
「……マジで?! 全然気がつかなかったー……」
 試合のみに全力で集中するという意味では千早らしい答えが返ってきた。
「大会とかで見た顔も居たけど、全然知らないのはここの学生だったのかな。……部員、増えるといいな」
「うん。……人増えたら、太一んとこのかるた部とも、試合したいわ。いや、合同練習でもいいで取りたいな」
 新の一言に千早が「賛成!」と飛びついた。
「この強欲人間ども……」
 太一は口調だけは呆れながら、それでも笑って言葉を返した。

 「……受けようか? それ」
 唐突に頭上から声が降ってきた。
「あ、小石川先輩。お疲れ様っす。今来たんですか?」
 K大に進んだ太一にとっては先輩に当たる、OBの小石川が立っていた。新と千早も会釈を返す。彼は今の試合を外で見ていたらしかった。
「外も結構、知った顔来てたよ」
「あ、そうみたいですね……ってか先輩今、受けるって言いました?」
「別にいいんじゃないかって思ってさ。部員が増えたら、の予約みたいなもんだし?」
「まあ、そうっすね」
 部員を増やす励みになるのなら、それもいいかと太一も納得した。

 「ちょっと一休みしとこ……おれちょっと、荷物んとこ行ってるで」
 新が立ち上がり、自分の荷物がある更衣スペース前の壁に背中を凭れさせて腰を下ろした。
「新もここで休憩? 私チョコ持ってきたけど、食べる?」
 千早が隣に座って自分の鞄の中を探る。
「あ、いや……おれも自分のあるし」
 何しろかるたの試合は体力だけでなく、配置の記憶や決まり字の変化、空札の把握などでかなり脳が疲れる。新が出してきたのはブドウ糖のタブレットだった。
「へえ、タブレットなんだ。一個チョコと交換しよ?」
「ほら、食べてみね?」
 千早に勧めながら、自分もタブレットの個包装を開けて一粒口に入れる。溶けやすいタブレットはすうっと馴染み、優しい甘さが口の中に広がる。
「あ、結構美味しい……」
「腹一杯にならんで、試合の時は逆にちょうどよくての。……あれ、千早?」
 肩口に重みを感じて目をやると、千早が肩に寄りかかる格好で眠ってしまっていた。
「……はは」
 新は小さく笑って、千早の手からそっとチョコを取り上げて鞄の上に置く。規則正しい寝息が新にも眠気を運んできそうだった。

 「……巽、お疲れさん」
 出水はミネラルウォーターのボトルを手渡して巽を呼び止めた。
「先輩も解説お疲れ様でした。……奥山先輩、体調不良だそうですけど大丈夫なんですか?」
「……さあなぁ。まあとにかくあと一試合だし、次もいい詠み頼むな。……あいつらが全力出せるように」
 出水の一言に巽は一瞬驚きを隠せなかった。去年も強い選手が辞めた時色々噂が囁かれたが、出水のスタンスは中立というよりひたすら面倒事を避けたいだけのように見えた。その彼が後輩が全力を出せるようにと自分から働きかけてきたのだ。
「はい。精一杯やります。先輩も、あと一試合解説よろしくお願いします」

 きっと出水を動かしたのは後輩二人の本気なのだろう。綿谷と綾瀬が入部した日に話をした事で、巽が二人の味方になったように、出水も詠みの話にかこつけて、二人の側に付いた事を知らせている。
「……ん、そうだな。……ところで、綿谷と綾瀬の二人は?」
 照れたのか、出水が不意に話題を変えた。
「えーと……あ、隅の方……ってあれ、寝ちゃってますよ二人とも。はは、あどけないなあ」
「お、本当だ。しっかし不思議な奴らだよなあ……ああやって寝てると凄味も何も感じねえけど、起きるとあの気迫だ……って、何か俺年寄り臭い事言ってんなあ、ははは」
 出水と巽の二人は顔を見合わせて吹き出した。

 「……ん、あれ……? おれも寝つんたんか……ふぁ……」
 うたた寝から覚めた新は軽く首を回して眠気を飛ばした。千早につられて一眠りしたおかげで前の暗記がうまく頭から抜けてくれている。その千早はまだ新の肩を借りたまま、気持ちよさそうな寝息を立てていた。
「千早、そろそろ起きんと次の試合、頭ぼーっとしたままやぞ」
 後に試合が控えていないなら、いくらでも肩は貸すのだが。少しだけ勿体なさを感じながら声を掛けて千早を起こす。
「んー……えっ、試合?!」
 がばっと千早が跳ね起きて辺りを見回す。
「もしかして私、ずっと肩借りてた?! ……うわあ、ごめん!」
「いいって、ほんな重となかったし。……目、覚めたか? 寝ぼけ眼で取って勝てる程、おれ甘くないでの」
 新が挑発すると、眠気が完全に吹き飛んだのか、千早の目が生き生きと輝き出した。新は小さく吹き出すと床から立ち上がって軽く身体をほぐす。
(いい天気やし、畳のいい匂いするし……巽先輩の詠み凄いし、……千早が相手やし。……言う事なしや)
「さて、行こっさ」
「うん。……頑張ろうね」
 頷き合ってから二人は畳の中央へと歩き出した。






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written by Hiiro Makishima