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序歌の余韻が場内を満たす中、新と千早は巽の口から出る最初の音を形作る「音の一歩先」を捕まえようと神経を研ぎ澄ます。 「──お」 新の陣に「をぐ」「おおこ」、千早の陣には「おおえ」がある。渡って取れなくはないが、「おおけ」が読まれればお手つきになってしまう。二人は慎重に次の音を待った。 「……ゴホッ、ゴホゴホっ!」 その瞬間、観客席から大きく咳き込む音が耳に飛び込んできた。これでは決まり字どころか一句目が判別できない。 「──たえてしなくばなかなかに」 読まれたのは「おおこ」、二人は二句目の出だしで同時に手を伸ばす。自陣にあった分ほんの少し新が先に札に触れたが、取った札を脇に積んでも新の表情は晴れない。 「ひとをもみをも うらみざらまし──」 下の句が読み上げられる中、瑞沢の元部員や原田は咳き込んだのは一体誰だと周囲を見回し、口元を押さえている一人の学生を原田が酷く怖い目で睨み付けていた。 (……やっぱり、か?) ただ聞こえた物音が咳とあっては、咳き込んだ本人にさえ予期せぬ事だった可能性も残ってはいる。いずれにせよ原田が厳しくマークしてくれているのだから、今考えるのはよそう、と新は小さく千早に頷きかけて構え直した。 「───すみのえの」 空札だ。ふうっと緊張が解ける。千早は首を回して身体の余計な力を逃がしてから、再び構えて次の音を待つ。 「か」 千早の陣には「かく」「かさ」がある。新はK音が耳に届いた瞬間飛び出して渡ったが、千早にとってもその二枚は「一字目で判別できる二字決まり」札だ。新が「かさ」を払おうとした時には既に千早の指先が札をはねていた。 (やるなあ、千早。……ほやけど、おれも負けんで?) そう考えたのが伝わったのだろうか。払った札を拾って席に戻ってきた千早は煌めく瞳を一瞬だけ新に向けてきた。 巽が次の札を構えて息を吸い込む。 「はるのよの──」 決まり字である三文字目が読まれる頃には、新の手は既に敵陣の「はるの」「はるす」と渡って払い終え、札を拾いに立ち上がっていた。新が送り札に選んだのは「ちぎりお」。千早が新の陣に「ちは」を送ってくる前に千早の陣に送ってしまい、渡り手が得意な自分に有利なように組み立てる。 (……新、渡って取る気だ。……でも、絶対取らせない。攻めて攻めて、送り返す!) 千早の瞳に闘志が滾る。 「───をぐらやま」 新の手の下を通る低く素早い振りで、千早が「をぐ」を弾く。札を拾った千早は額の汗を手の甲でぐいと拭って、一番の得意札「ちは」を新に向けてすっと差し出してきた。 (……仕掛けてきたか。ほやけど、おれの武器は渡り手だけでない) 「札、移動します」 送られた「ちは」を定位置の右中段ではなく左下段に置き、普段「ちは」を置く位置に「よのなかは」を動かした。 新が札を移動する間、千早が上げていた手が下ろされたのを見て、巽は「をぐ」の下の句を読み上げた。再び二人は聴覚に全神経を集中させる。 「───」 一音目が読まれた瞬間、練習場の戸に何かがぶつかって大きな音を立てた。 「──たのはらこぎいでてみればひさかたの──」 (……空札だ。危なかった……でも、こんなの続いたら……) 自分も新も神経が消耗してしまうだろうと思っていると、須藤が千早の顔にじっと視線を据え、顎をしゃくって「中断して立て」という意志を伝えてきた。 「……失礼します」 須藤の様子に気がついた千早は床から立ち上がり、何度か深呼吸を繰り返して気を静める。その隙を突いて須藤は入口扉の側まで素早く移動した。彼のすぐ近くには三笠が座っている。須藤は周囲に素早く視線を巡らせた後、上から見下ろすようないつもの表情になった。場所を移った須藤の姿が自分の視野に入ってきた事で、新は珍しく千早が試合中に席を立った理由を察し、腕組みをして千早の顔を見上げる。 流石にこの頃には何かがおかしい、と瑞沢の仲間や北央のOBも気付いていた。彼らも競技者だから、自分がその席に居るつもりで試合を見ているのに、さっきから何度も嫌なタイミングで物音が立ち、見ている彼らでさえ神経を逆撫でされる。 (西田、ビデオ回してるよな?) 太一はカメラを持っている西田に耳打ちする。西田は無言で頷いた。彼が撮っているのはあくまでも試合だが、もしかしたら何か写っているかも知れない。 (回しててくれ。おれ動けるタイミングで音立てるヤツの方押さえてくる) (……ああ) 千早が席に戻り、新と巽に一礼して構え直す。それを受けて巽は手にしていた読み札を掲げ、すうっと息を吸い込んだ。 「───め」 M音で反応した千早の手が新の下段に伸びてくる。だが札に触れるその瞬間、爆発的な加速で新の手が千早を追い越し、力強く札を弾き飛ばした。 「……っ?!」 弾かれた「め」札が奥山の顔の脇を掠めて練習場の隅へと飛ぶ。風圧が彼の髪をふわりと浮かせ、奥山は身震いが隠せなかった。 (……何だ、今の……綿谷の席からここまで何メートル離れてる? ……なのに、札が直線で飛んできた……) 札を拾いに来た新が小さく一礼する。気負っているようには見えないのに、視線が合った瞬間奥山は射竦められたように動けなくなった。 (あいつ……!) 身に覚えがあるからそう思うのかも知れないが、新の目は「全部分かっている」と言っているように思えて仕方がなかった。奥山の背中を嫌な汗が流れる。 新が豪快に札を弾き飛ばしたおかげで、太一はあっさりと原田が睨み付けていた観客の側につく事が出来た。さっき咳き込んでいた男は背後に太一の気配があるのが気になるのか、しきりに会場内のあちこちに目を走らせている。 「───つくばねの」 当たり札は新の陣にあるが、友札の「つき」は千早の陣にある。千早は持ち前の感じを最大限に生かして二字決まりの札を一字で抜き去った。場内から声にならないどよめきが漏れる。 (クッソ、やっぱ新の加速は見てても分かんねー……これで『つき』は一字……いや子音でのスピード勝負だ……) あの加速とまでは行かなくとも、何かコツを掴めればと太一は試合を見に来たのだが、千早の「感じ」と新の「超加速」に嘆息するしかない。千早はその「つき」を新に送った。 「……札、動かします」 「つき」を受け取った新は、前に送られた「ちは」を右中段、「わたのはらや」の隣に動かし、さっきまで「ちは」があった位置に「つき」を置く。 (……抜けるものなら抜いてみろって事? 新。……いいよ、受けて立つ。『ちは』は私の特別だから、どこにあったって関係ないよ) 千早の目が生き生きと輝き出す。 (千早はこの札を自分の特別って思ってるけど、……おれにとっても、やっぱり特別な札なんや。どんだけ千早が速かっても、おれかって負けん。……正々堂々、勝負や) 眼鏡越しの新の瞳にも強い光が漲っている。二人の雰囲気を感じ取った会場に、緊張と期待が入り交じった空気が満ちていく。 残念ながら直後に読まれた札は「ちは」ではなかったが、二人だけでなく見ている者も緊張を解かない。札が減り新が得意な渡り手が出せなくなってきているが、その分千早のペースにさせまいと柔軟に札を動かしている。一方の千早も聞き分けが難しい札を新に先んじて判別し、水のような新のかるたを切り裂く風のように鋭い取りを見せる。 「───」 新の耳に微かな歯擦音が届く。正面の千早がまっすぐ「ちは」に手を伸ばしてくる気配を感じ取り、新もまた誰も真似出来ないあの加速で自陣に置かれた「ちは」に手を伸ばした。 「……っ」 お互いの中指の先端が札のちょうど真ん中でぶつかりあっている。 「セイム……」 悔しそうに千早が札から手を離した。 (……加速させて同時とか、ほんなもん取ったって言えん……自陣にあったってだけや……) 札を脇に積む新の表情も決して緩んではいない。追い抜くつもりで手を出したのに、結果は同時だったのだから。次こそは確実に取る、と新は再び集中を高める。 「わたのはら──」 得意札の「ちは」を逃してしまった千早が意地を見せ、既に「わたのはらこ」が読まれて二字決まりになっていた「わたのはらや」に、今度こそ一瞬速く千早の指が届いた。 「……よしっ!」 袴の裾を翻し、札を拾いにいく千早の額から汗の雫が飛び散る。「わたや」が抜かれて枚数差がまたゼロになった。 「……ふうーっ……」 新は大きく息を吐き出して肩の力を抜く。 (……面白いなあ。千早とやと、得意札抜かれて悔しいって思ってんのに、悔しさもなんか楽しいって思ってまう……) 席に戻ってきた千早の手から、札が送られる。彼女の顔も何故か微笑んでいるように新には感じられた。 (やっぱ『ふ』か。……いいざ、千早。勝負しよっさ) 送られた「ふ」を右下段の「む」の横に置く。 (枚数差はゼロ。……新、行くよ) 構えた千早のこめかみから顎を伝った汗が一滴、畳の上にこぼれ落ちる。 ようやく妨害が収まった中、千早と新の試合はまさに一進一退の展開を続けている。新の手元にはさっき並べた「ふ」と「む」の一字決まりが二枚、千早の手元には新から送られた「よのなかは」だけが残っている。だが「よのなかよ」を含む数枚がまだ出ていない。巽がそっと次の読み札を掲げて息を吸う。 「──よのなか」 新が思い切りの良い飛び込みで札を低く覆う。千早も指先を新の手の下へ差し込んでその囲いを破る構えを見せた。次の一音にどれだけ素早く反応出来るかが勝負の分かれ目になる、と場内も固唾を呑む。 「───は」 巽の口から出た柔らかな音の断片を捉えた瞬間、素早く手を伏せた新が千早に差し出したのは「ふくからに」。さっき送られた千早の得意札を新は敢えてこの運命戦で送り返した。 (新と運命戦って初めてだ……。だけど、そんなの関係ない。私は私の武器で攻めて……勝つんだ、新に) F音もM音も、千早の方が聞き取る能力は新より高い。そして高校時代の試合で、本来自陣死守が鉄則の運命戦で敵陣を抜きにかかった経験もある。どちらが読まれようと自分が押さえるんだ、と千早は目線を上げたまま自分に言い聞かせた。 (千早がおれに言うたやろ? 手に入れたいものほど手放すんや、って。……ほやで、おれは『ふ』を送ったんや。……まあ運命戦やし、『む』出れば押さえるけどの) 確かに「感じ」では千早に一歩及ばないだろうが、新の信条は祖父から教わった「相手より早く取るだけ」だ。そのための武器も磨き続けてきた。新は千早の視線を一度真っ向から受け止め、静かに構えた。 |