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「こんにちは、ごめんください」 千早に案内されて、新は途中で買った和菓子を手に「呉服の大江」の入口を潜る。外から見ても色とりどりの反物が美しかったが、中に入るとさらに多くの色と柄が二人を出迎えた。 「いらっしゃいませ。……千早ちゃん、卒業式以来ですね」 店の奥から出てきた着物姿の小柄な少女が、しとやかに頭を下げてこちらにやって来る。千早ちゃん、と呼ぶ所を見ると、彼女が奏だろうと新は見当を付けた。 「新、紹介するね。かなちゃんこと、大江奏さん。かなちゃんは新の事は知ってるよね?」 「はい、それはもう千早ちゃんから高校時代何度も聞いてましたし、試合場で何度もお見かけしてますから。……でもご挨拶するのは初めてでしたね。大江奏です」 「綿谷、新です。今日は急にすみません。これ、皆さんで召し上がって下さい」 さっき買った和菓子を奏に手渡すと、奏は散々恐縮した後にようやく受け取ってくれた。 「……あら、千早ちゃん。お久しぶりね」 奥の暖簾をすっと潜って、奏とよく似た面差しの、やはりきちんと和服を着こなした上品そうな女性が顔を出した。 「あ、かなちゃんのお母さん。御無沙汰してます! 今日は、かなちゃんに和歌の意味を教わりに来ました」 「こんにちは、お邪魔してます。……千早の友人で、綿谷と言います」 新は奏の母の利恵子に礼儀正しく頭を下げた。 「お母さん、しばらく店番代わってもらってもいい?」 「そうねえ……あ、奏。ちょっと……」 利恵子は娘に何事か耳打ちしている。心なしか奏の表情が強ばったように二人には見えた。 「あの……千早ちゃん? ……実は、ですね……」 奏が言い淀んでいると、利恵子が即座にその後を引き継ぎ新にまっすぐ視線を合わせてきた。 「うちの奏に先生役を頼むのであれば、交換条件が一つ」 「な、何でしょうか……」 利恵子は懐から一冊のカタログを取り出すと、にっこり笑って新に手渡した。 (え、着物買えって言われたら流石に無理や……福井で父ちゃんと母ちゃんが卒倒するわ……って、あれ? これ、写ってんのって……千早か? ……へー、こんな事しとったんや……) 袴姿は何度か見ているが、髪をきちんと結い上げて古典柄が美しい振袖を着ている千早はやはり華やかだ。新は手渡されたカタログの中で微笑んでいる千早から思わず目が離せなくなった。 「新しい号のモデルになってもらいたいのよ。二人で」 新の手からカタログがはらりと床に落ちた。 「……え?」 何か今、途轍もなく信じがたい言葉を聞いたような気がして新は利恵子の顔を凝視する。 「それを受けてくれたら、奏はいくらでも貸し出すわよ? 勿論、袴の貸し出しだってオッケーよ?」 「かかか、かなちゃん?!」 千早が裏返った声を上げる。ちらりと奏の方を見ると、困ったような笑みを浮かべたまま黙っていた。どうやらさっきの耳打ちで母に何か因果を含められたらしい。 「……それに綿谷くんって、前に名人戦の挑戦者決定戦に出てた子よね? 呉服の大江も鼻が高いわあ。うふふ。未来の『名人』と『クイーン』が揃ってモデルだなんて、ねえ」 千早と新の背中が同時にぴくんと動いた。煽られていると分かっているのだが、「名人」と「クイーン」という単語を出されてはおめおめと引き下がれない。と言うよりも、ここで拒否したら更に煽られそうだという強烈な予感があった。 「……わ、分かりました。引き受けさせてもらいます」 新にとってかなりの苦行になる事は分かっているが、千早に「歌のイメージを色で見る」事を教えた奏の話は是非とも聞いてみたかった。顔が引きつるせいで、まるでロボットのように固い声が新の喉から絞り出される。 「……ええっ、新、マジで? 写真苦手って言ってなかったっけ?!」 千早が「無駄美人」の本領発揮とでも言うべきもの凄い顔で問うてきた。 「苦手やけど、名人引き合いに出されたら逃げる訳にいかんが。千早は嫌やったら別にいいんやざー? おれ一人で受けるし? ……おれは真剣に目指してるでの、『名人』」 新の一言を聞いた千早のこめかみに音が聞こえてきそうな青筋が浮かぶ。 「わっ、私だって逃げないよ! ……かなちゃんのお母さん、私もやりますっ!」 (千早ちゃん、相変わらず挑発に弱いんだ……それにしても綿谷さん……肉まんくんが前に『須藤さん並のドS』と言っていたのも納得です……) 奏が見る限り、引き受けると言ったのは新の意志だが「千早に引き受けさせた」のも新の言葉だ。千早の性格ならどう言えば「うっかり」乗るかを、須藤や太一と同じ位把握しているように思えた。 「じ、じゃあお二人とも……ここじゃ何ですから、私の部屋で歌の事は話しましょうか」 「あ、うん。……行こ、新」 奏に促されてようやく千早は普段の表情に戻る。 「あ、綿谷くん。奏に連絡先教えておいてちょうだいね。撮影日決まったら奏から連絡させるから」 二人に続こうとした新の背中に利恵子が声を掛けた。 「……、……はい」 (何やろう……ちょうど意識が逸れた瞬間に逃げられん事言われてる気がする……) 北央OBの須藤の事を、千早や太一が「ドS」と評しているのは知っているが、正直に言えば利恵子の方が一枚も二枚も上手なのではないのかと新はふと思った。 「さ、どうぞ。足、楽にして下さいね」 二人に座布団を勧めながら、奏はきちんと正座で向き合っている。新は彼女に倣い、やはり正座で背筋を伸ばした。 「意味の説明と言っても、どこから始めたものか少し迷ってしまいますね。……綿谷さんの好きな歌や、特に意味を深く知りたい歌から始めた方がいいでしょうか」 奏はつと立ち上がり、机の上に置いてあった数冊の本を手に取り、それから引き出しの中から読み札と取り札が収まっている箱を取り出すと二人の前に座り直した。 「あ、ほんなら……今日、練習の時千早が『なにわえ』と『なにわが』で見える色も違うって言ってたんで、そこからお願いできますか」 頷いた奏は札セットから「なにわえ」「なにわが」の読み札を抜き出して新と千早の目の前に並べた。 「千早ちゃん、覚えてますか? 千早ちゃんがこの二首の雰囲気が似ていて間違いやすいって言った時、私が最初に挙げた違い」 「うん、年代だったよね」 驚く新を尻目に、奏はその通りですとにっこり笑う。 「よく似た情景を詠んでいますがおよそ二百年の隔たりがある二首です。その時私が例に挙げた色は『なにわが』が冬枯れた芦のくすんだ緑、『なにわえ』はもっと若い、艶っぽい緑でした。言葉だとピンとこないかも知れないので、この本も一応持ってきたんですけど」 そう言いながら奏が差し出してきたのは「和色辞典」と表題がついた一冊の本だった。 「……和色って緋色とか萌葱色とか、着物なんかに使う色の事やったっけ……?」 本を手に取りながら新が尋ねると、奏は「そうです」と頷く。 「日本の伝統色をそう呼びますが、綿谷さんの言うように着物にも用います」 「かなちゃん、凄い本持ってるんだねー……じゃあ『ちは』の色も載ってたりするの?」 千早は新の横から手を出してページの端を少しめくり上げて中を見ている。 「私が説明したのとは少し色の印象が違いますが……『からくれない』という色もありますよ。でも千早ちゃんはもう、自分でイメージした深い赤がありますし、心の中にあるその色を大事にした方がいいと思います。……それが千早ちゃんにとっての『ちはやぶる』の赤、ですから」 「……音と意味と、情景……その色……」 本の表紙に手を置いたまま呟く新を千早と奏が訝しんで見ている事に気がつき、赤面しながら顔を上げた。 「いや、あの……大江さんには凄く申し訳ないって思うんやけど、色のイメージで札を把握する方法は、おれの取り方にはうまく応用が利かんみたいや。ごめんな。……ほやけど、じいちゃんと佐藤先生がよう話してた事とかは、大江さんの言う色のイメージやともっと色々分かる気がするわ。……ありがとう」 新はメモ帳を取り出し、奏が出してきた「和色辞典」の書名と出版社名を書き留めた。 「多分大学の図書館にあるやろし、借りて佐藤先生のノート読み直してみるわ。ほんとに、ありがとう」 「い、いえ……私のも、言ってみればこの本の受け売りですし……」 そう言って傍らにあった「解説小倉百人一首」と題された重そうな本を新に見せた。 「あれ? ……この本、もしかして……じいちゃんの本棚に同じのがあったかも知れん。ちょ、ちょっとごめん」 新は奏に断ってから索引から「せをはやみ」のページを調べて開くと、食い入るように本文に目を通す。高校生時代の初対戦の後、再戦の約束を交わした時に祖父が佐藤先生に差し出したのが「せをはやみ」だった。 「やっぱそうや。じいちゃんの本棚にあるのとおんなじ本や。……うちに電話して送ってもらお」 新は礼を述べて、上下を奏から見て正しい向きにくるりと回して本を奏に返す。 「……何連覇もなさった永世名人と同じ本を読んでいるなんて、ちょっと誇らしい気分です。私、もっと頑張らないといけませんね」 本を受け取りながら奏は照れたように肩を竦めながら言う。 「かなちゃんは、専任読手になるのが目標なんだよ。ねー?」 「はい。いつか千早ちゃんのクイーン戦で詠みたいなあって、そう思ってるんです」 奏と千早が顔を見合わせて頷き合っている。 「ほんなら、おれの試合も大江さんが読んでくれるって事やの」 「あっ、そうですよね……名人戦とクイーン戦は一緒に行われるんでした」 奏は片手を口元に当て、気付いてませんでした、と恐縮する。 「名人戦の席に新。クイーン戦の席には私。それで読手がかなちゃん。……何かすごいよね、それ」 (大江さんの詠みに慣れてる自分が一番有利やって、全然分かってえんやろ千早……。ほやけどまあ今はいいか、言わんでも。……それが二人の夢なんやし) 「……ほうやの。……そろそろ失礼しよっさ。長居してもてごめんな、大江さん」 「いえ、私も楽しかったです」 新と千早が立ち上がると、奏が玄関まで見送ってくれる。 「じゃあかなちゃん、またね!」 「今日はどうもありがとう。もし暇があったら、うちの大学祭にも来て下さい」 深々と頭を下げて新がそう言うと、千早もつられて奏に頭を下げ、照れたように笑った。 「実はね、大学祭で私と新でデモンストレーションやる事になってるんだよ。もちろん袴で」 「それは是非見ないといけませんね」 和服が好きな奏はそれだけで目を輝かせている。 「あっ、袴と言えば……カタログ撮影、よろしくお願いしますね!」 やはり忘れてはいなかったようだ。千早も新も引きつりそうな顔で返事をするのがやっとだった。 |