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新の部屋の中に、ペンを走らせる微かな音だけが響いている。一般教養の講義で出された小レポートを一緒に書こう、と千早は新を誘ったのはいいが、新は黙々とレポート用紙を文字で埋め続け、ろくに話が出来ないでいた。 「……」 千早はペンを持つ手を止め、レポートを書き続ける新をちらりと盗み見る。レポート用紙には丁寧に書かれた文字が並び、新の几帳面さを窺い知る事が出来る。一方自分のレポート用紙は書いては消しての繰り返しでちっとも罫線が埋まらないままだ。紙の下の方には勉強に飽いた千早がぐるぐると書き殴った線がまだ残っている。 (……こういうの苦手……新も全然話してくれないし……) 「千早」 ペンを持つ手を止め、不意に新が呼びかけてきた。 「な、なに?」 やっと話が出来ると千早は弾かれたように返事をした。しかし名前を呼びはしたものの、新はレポート用紙から顔を上げていなかった。 「やる気ないんやったら、帰って」 千早が思っていた以上に厳しい声音で新は言った。 「一緒に勉強しよって言うたの、自分やろ。……ほやのに、さっきから脱線してばっかで、なんも進んでえんが。……千早、高校の先生になりたいんでなかったんか? ……かるたさえ出来れば、他の事はどうでもいいんか? 今のうちにはっきり言うとくけど、おれ、そういうの好きになれんし、ほんな人間って尊敬も出来ん。それ、千早やったかって例外でない」 甘えは一切容赦しないという意志を新は言葉に乗せてきっぱりと言い切った。その痛烈な一言を、千早は以前にも聞いた覚えがあるような気がして記憶を手繰り寄せた。 『やりたい事を思いっ切りやるためには、やりたくない事も思いっ切りやらなきゃいけないんだ』 (……そう、だ……机くんが教えてくれたのに……ゴメン、机くん……ごめん、新……) 高校時代、駒野は千早の勉強に付き合ってくれていたのに、それを抜け出して試合の応援に行った千早に、彼は「成績が落ちたらかるた部を辞めさせられる」という太一の事情を引き合いに出して諭してくれた。 (机くんがあんな大事な事教えてくれたのに、私、新と一緒って事に浮かれてばっかりで……自分が、恥ずかしい……) 「すっ、済みませんでした! 浮かれないで、ちゃんとやります!」 千早は背筋を伸ばして座り直し、机にぶつけそうな勢いで頭を下げた。沈黙が部屋に落ちる。 「───」 微かな呼吸の音を聞いたように千早は思う。新が溜め息を吐いたのだろうか。それが一体どういう意味の溜め息なのか確かめられず、千早は顔を上げられないでいた。 (呆れ、られた……?) 「……千早、顔上げねって。……もう、分かったで。片付けてまおっさ、レポート」 「は、はいっ!」 紅潮した顔をがばっと起こした千早は、目元に滲んでいた涙を手の甲でごしごしと拭い取ると、ペンを握り猛然とレポート用紙に向かいだした。その様子を眺めていた新は千早に見えないように小さく笑う。 (現金なんか素直なんか……まあ、分かってもらえたみたいやし、突っ込まんとこ) 千早の持つペンがガリガリと音を立てだしたのを聞いて、新も自分のレポートの仕上げに戻った。 「……う、あれ……?」 突然聞こえてきた、裏返った声に新が視線を送ると、千早は額を人差し指で押さえ、眉間に皺を寄せて何事か悩んでいた。 「どしたんや?」 「……ううう……漢字、度忘れ……」 新はひょいと横から千早のレポートを覗き込む。文章は中途半端な所で途切れ、その後ろには何とか思い出そうと試行錯誤しては消した後があった。その中にいくつか「魚偏」の漢字がある。別の箇所をざっと流し読みしてみた新はいくつかの単語からレポートに書いている文学作品名に当たりを付け、そこから千早が度忘れした漢字を一つに絞り込んだ。 「出てこんのって、もしかして、これか?」 千早のレポート用紙の隅に少し大きめに「鱒」と書き込むと、千早の口からおお、という声が漏れた。 「ありがとう、新! ……じゃなかった、『綿谷先生』ありがとうございます!」 今度は新が机にばたりと突っ伏してしまった。 「せ、先生て……しかも綿谷先生って普段呼ばれてんのは、じいちゃんや……何かむずむずしてまうわ。……ちゃう、それはどうでもいいんや。レポート書くんやろ、レポート」 照れ隠しに新は少し乱暴に言葉を返し、書きかけのレポートに無理矢理視線を戻す。和室には再びペンが紙の上を走る音だけが響いた。 「お、わっ、たあ……!」 近眼の新でさえやらない程、顔をレポート用紙にへばりつけて必死に小レポートを仕上げていた千早がようやく大きな息を吐きながら顔を上げた。 「お疲れさん。……お茶淹れたで、一息入れね」 一足先にレポートを書き上げた新は穏やかに笑いながら千早の分の湯飲みをテーブルに置いた。 「あ、ありがとう。……喉、からっから。……ふう……お茶美味しいー」 新が淹れてくれたお茶を楽しんでいると、二人の携帯が同時にメール着信を知らせてきた。 「巽先輩からや。……大学祭?」 部の先輩からの一斉送信メールには、近く開催される大学祭についてミーティングを行うため、週明けに部室に集合と記されていた。 「何やるんだろうね、うちの部」 「さあ……どっちにしても、おれらが一番新入りやし、言われた通りやるだけやけど……」 元々かるた以外で人前に立たされる事があまり得意ではないのに加えて、大学に入るまで「学校のかるた部」にも無縁だった新は、文化祭や体育祭で何かしたという経験はあまりない。 「せいぜいクラスの模擬店でレジに居たぐらいやなあ。お前本屋でバイトしてるんやでレジやれ、って」 「レジならいいじゃん。私なんか呼び込みだよ? 看板持って大っきな声で、喫茶店やってまーす、とかさ」 目立つ容姿の千早なら、呼び込みには適任な気がすると新は思うのだが、本人はそう考えていないらしい。いずれにしてもお互い文化祭の出番はそうなかったようだった。 「……あれ、もう一通来たよ?」 巽から二通目のメールが二人の携帯に順繰りに届いた。 『一年生二人、自分の袴持ってるかどうか返信下さい 巽』 文面を読んだ千早と新は顔を見合わせる。 「……袴? 試合でもするんやろか」 本音を言えば、模擬店で目立つよりは試合で注目される方が数段マシではあるのだが。 「分かんないけど。……とにかく返事送っとかないとね。……そう言えばさ、新が決定戦で着てた袴って自前? すごく似合ってた」 「ほ、ほうか? ……あれはお下がりや。じいちゃんの」 永世名人だった祖父は袴を着ける機会も多かったため、自宅の箪笥には何着も仕舞われていた。決定戦で新が着たのはその中でも特によく祖父が袖を通していたもので、今もきちんと風呂敷に包んで持ってきている。普段の新はそういう誉められ方は照れくさくて苦手だが、祖父が愛用していた着物を似合うと言われるのは素直に嬉しかった。 「じゃああの着物って、名人戦何度も経験してる着物?! ……うわあ、何か凄いなあ。いいなあ……」 二人とも袴は持っていますと返信を終えた千早が羨望たっぷりの声で言う。 「そんな風に言うと、着物が直接かるた取ってるみたいにも聞こえるけど……何か面白い表現やの」 「え、何か変だった?!」 大きな瞳をさらに見開いて聞き返してきた千早に、新は笑ってかぶりを振った。 |