2
|
入学式や履修登録で数日が慌ただしく過ぎた。特に新は福井からの引っ越しがあって、挨拶回りや片付けといった細かい用事に追われていたせいか、珍しく顔に疲れの色が見える。 「新、なんか顔色悪い気するけど大丈夫?」 揃ってかるた部の見学に向かう途中、千早は横を歩く新の顔を覗き込むように聞いてきた。 「……まあ引っ越しとかでバタバタしてたでの。自炊始めたばっかやし。……すぐ慣れるで大丈夫や。ありがとの」 「え、新、自分でご飯作るの?! すごーい」 千早に誉められて新は顔を赤く染める。ここでの暮らしに慣れるまでは実家からの仕送りだけで生活しなければならず、必然的に自炊で節約する必要があるというだけなのだ。 「大会参加費とか考えたら無駄遣い出来んでの。……一応母ちゃんから簡単なもんは習ろといたし」 今までは近江神宮へ行くには南雲会の誰かの車に相乗りで来られたし、電車を利用しても運賃がそこまで嵩みはしなかったが、今年からはそういう訳にはいかない。近いうちにバイトを見つけて、かるたに関わる費用は自分で捻出しておこうと新は考えている。 「……ダメだなぁ、私。新みたいにしっかりしてないよ……」 はぁ、と千早は大きな溜め息を吐いた。ずっと自宅住まいで、考え事をしていると温め直しのカレーでさえ焦がしそうになるし、貰ったお小遣いの中でまともな使い道は白波会の会費ぐらいなものだ。母もパートに出ているし、姉だってタレントとして仕事を持っている事を考えると、綾瀬家の中では自分が一番生活力がないと思う。 「ほんな落ち込まんでもいいがの。お姉ちゃんのお下がり大事に使こてるのも立派な節約やろ? ……まあ、料理は出来て損はないけど、無理して包丁で手ぇ切ったりしたら大変やが」 「う……それはヤだ。全力でかるた取りたいし」 確かに千早は以前、利き手を怪我した際に左手でかるたを取った経験はある。だが使わないようにしていても疼くような痛みは、やはり集中を妨げるものだ。 「あ、ほら。あそこや練習場」 新の指さす先に「競技かるた部」という貼り紙が見えた。 「おおっ、行こ、新!」 落ち込んでいた千早の顔が一気に勢いづく。その表情を見て新は小学校時代の記憶をふっと甦らせた。 (……初めて白波会に見学行った時も、千早こんな顔してたなぁ……) 早く早く、と急かす千早に苦笑を浮かべながら、それでも新は歩く速度を少し上げ、練習場へと向かった。 「競技かるた部」という貼り紙の向こうでは、何人かの部員が集まっているようだが、まだ練習は始まっていないらしい。 「失礼しまーす」 引き戸を開けながら入ると、先に来ていた部員の視線が二人に集中する。 「……入部希望者の人?」 「はい! よろしくお願いします!」 新と千早が同時に頭を下げた。 「えーと、名前順番に言ってくれるかな。あと級も」 「あ、はい。……教育学部一年の、綾瀬千早です。えっと……A級です」 「……文学部一年、綿谷新、A級です。よろしくお願いします」 二人が名乗った瞬間、部室の雰囲気が急にざわついた。 「綿谷って、あの福井の……?」 「個人でそんな強いんなら、そのままどっかのかるた会でやってりゃいいじゃん。うちみたいな所来なくてもさあ?」 ひそひそと交わされている会話だが、千早の耳には全て届いてしまう。 (……何? この空気……何でこんな事言うの……?) 瑞沢かるた部は自分で立ち上げた七人しか居ない部だったため、レギュラー争いとは無縁だった。高校選手権で戦った北央や富士崎のような強豪校ならそうした事もあるだろうが、実力があれば下級生でもスタメン入りを果たしていたし、他の部員が表立って不満を口にはしていなかったように思う。ましてこんな敵意剥き出しの目を向けられた経験は千早にはない。 (───千早、気にする事ない) 新は目線でそう伝えてきた。 競技である以上、必ず優劣は付くものだ。永世名人を祖父に持つ新は周囲からやっかみの目で見られた経験も何度かある。それを常に覆してきたのは、自分の努力で培った実力と、先輩や周囲への礼を大事にしろという祖父の教えだった。 (ほやで、後は自分のかるたで分かってもらえばいいんや。……千早もおれもの) 新の落ち着いた顔を見ているうちに、千早も浮き足だった気持ちが静まってきた。 (……いつも、新はそうやって気付かせてくれる……そうだね、自分のかるたで勝負すればいいんだよね) いつの間にか、千早の口元には微かな笑みが浮かんでいた。 「ふーん……二人とも随分余裕っぽい? じゃあちょっと、お手合わせ願おうかな」 体格のいい一人の上級生が新を睨み付けながら試合を挑んできた。 「おれですか? ……ほんなら着替えます」 「あ、わ、私も試合したいですっ!」 割り込むように千早が手を上げた。敵意に満ちた目で見られようと、かるたはかるただ。そう思うと随分気持ちが楽になる。千早の勢いにやや気圧された上級生だが、気を取り直してさっき新の噂をしていた中から一人選んできた。 「……更衣室、あそこ使って」 別の上級生が更衣スペースの場所を教えてくれた。二人は礼を述べて着替えに向かう。 「わあ、更衣室あるのって、いいなぁ……」 パーテーションで区切られただけの、更衣室というにはお粗末な場所だが、千早はしみじみと呟いた。 「……瑞沢の部室になかったんか?」 「だって元物置だもん着替える場所。畳だって私と太一で拾ってきたやつだし、予算もそんななかったし」 「へー……やっぱ創設時ならではの苦労って、色々あるんやの……今度ゆっくり聞かせてや」 (……瑞沢って、都立瑞沢?) (ってか今思い出した。綾瀬って吉野会大会優勝してる奴じゃん。他にもいくつか) (え、それであんな余裕な会話って事?) 全く緊張していない風な二人に、部室内が再びざわつき始める。今度は千早の戦績に話が及んでいるらしい。新はTシャツに袖を通しながら小さく笑った。 「───お待たせしました」 着替えを済ませた二人が出てきた途端、それまで騒がしかった部室がしんと静まった。千早も新も服装以外何も変わっていない筈なのに、醸し出す雰囲気がさっきとはまるで違うのだ。 競技線の中央に、すでに二組の取り札が積まれて置いてある。千早と新は落ち着いた足取りで畳の上を進み、その下座に並んで座る。一拍遅れて二人の上級生が不機嫌さを押し隠す事もなくどっかりと座り込んだ。 「よろしくお願いします」 一礼して顔を上げたその瞬間、二人の対戦相手は自分達が気圧されているのを感じた。闘志を表に出すタイプの千早と裡に秘める新という印象の違いはあるが、真剣さという意味において両者の表情は同じものだ。さっきまでの雑音も意識から綺麗に消し去り、競技線上の札に集中しているのが傍目にも分かる。 「じ、じゃあ暗記時間……」 (何だ、この二人……) 読手役の上級生は時計を見ながらつい考えてしまう。この大学のかるた部も昔は強かったらしいが、ここ何年かは大した実績がない。今のレギュラーにしても上を目指す気はとうに失せている位だ。 (……良かれ悪しかれ大きく揺れるぞ……この部) 彼自身はこの二人が入る事で部がどう活性化するのか見てみたい気もする。だが他の部員はどう反応するか分からない。 「……始めます」 彼は一度だけ大きく深呼吸をして、序歌を詠み始めた。 |