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南雲会の練習に行く支度をしていると、新の家の呼び鈴が押され、細く開けた扉の間から顔を覗かせた郵便局員が書留だと告げてきた。 「はい、今行きますー」 新は階段を下り、局員が差し出してきた受領書に丁寧な字体で受け取りのサインをする。局員が去るのをじりじりしながら待ち、玄関が閉められると新は封を切って中の紙───推薦入試の合否通知を取り出す。きちんと畳まれているその紙を開く前に、一度深呼吸をし、落ちていてもまだセンター試験でワンチャンス残っていると自分に言い聞かせてからゆっくりと通知を開く。 「──やっ……たぁ……」 全身がほっと弛緩するのが分かる。これで春から晴れて東京の大学生だ。新は台所に飛び込み、家族が使っている伝言用のホワイトボードに通知を磁石で貼っておいた。 「よしっと。……さて練習行かな」 南雲会に着いたら栗山先生や村尾さんにもいい報告が出来る、と新は練習用の鞄を掴むと愛用の自転車に跨り勢いよくペダルをこぎ出した。 郵便受けをチェックしに由宇が玄関の外に出ると、ちょうど隣の家から新が飛び出して自転車に跨るところだった。心なしかその表情はいつもより晴れやかに見える。自転車はぐんぐんスピードを上げて由宇の視界から消えていった。 「何かいい事あったみたいや、新。……まあ、後で言いにくるんやろ」 何しろお互い生まれた時からの付き合いだ。新に何かあれば、それが良い事でも悪い事でもその表情で気付けてきた。それが幼馴染みというものなのだろう。 (新はそこまで気ぃつかんみたいやけど……ほんと、かるた以外はとことん鈍いんやで、新は) 部屋に戻った由宇は鞄から手帳を取り出して予定表をぱらぱらとめくる。由宇自身受験生とあって、友達の誕生日や買い物の予定の他に、模試の日程やセンター試験、発表日時も書き込まれている。そして今日の日付の横には「推薦入試合格発表日」と自分の字で書いてあった。 「あんな顔してた事は新、受かったんやな……あ、それやと新の事やし、変に遠慮して言うてこんかも。後でお裾分けがてら、おめでとうって言いに行こっかのぉ」 由宇の志望校が県内の大学だという事は新も当然知っている。由宇自身は模試判定でも楽に合格圏内に居るが、どこの学校でも今は最後の追い込み中だから、推薦で一足先に受験レースから抜け出した新は妙な気の遣い方をして、自分から言ってこないかも知れない。 「ほんと、手ぇかかる」 そんな事を言いながら、由宇は台所にあるものでお裾分け出来る物は何かあっただろうかと考えを巡らせた。 「あ、新。ちょうどいいとこで合うたわ。……これ、うちの母からお裾分け」 南雲会での練習から帰って来る頃を見計らって由宇が玄関を出ると、程なくして新の自転車が小さくブレーキの音を鳴らせて止まった。 「ありがとう。由宇は受験勉強の休憩中か?」 新は礼を言って由宇からお裾分けの紙袋を受け取る。 「まあ、そんなとこや。……そう言うたら新、推薦の通知届くのって確か今日でなかった? まだ郵便受け見てえんの?」 通知が来ただろう事は新の顔を見れば分かるが、何でもかんでもお見通しだと思われるのも嫌で由宇はたった今思い出したように尋ねた。 「あ、うん来てた。……受かってた」 予想通り、少し遠慮したような口調で新が答えてくる。 「ほうなんや、良かったがの。おめでとう! ……ほんなら引っ越し準備とか、これからやの」 「準備ったかって、大した荷物もないけどの。今度はあっち行くのおれだけやし」 今度、という単語に由宇の脳裏に六年前の記憶がちらりとよぎる。あの時は新の祖父が倒れてしまったため一家は四ヶ月で東京から帰って来たが、その敬愛する祖父もすでに亡く、東京への進学を両親も認めた今、新を福井に引き留めておく物はない。そう思うと由宇の胸がちくりと痛むが、そんな風に考える自分にも嫌悪を覚えた。 「ほ、ほんでも東京やったら新ぁ、前ここ来た友達ら居るで安心やが?」 普段通りの表情を作るのに、ほんの少しだけ努力が要った。 「うん……」 新の返事にどことなく「目の前にピントが合っていない」ような印象を感じ、由宇は新の顔をそっと盗み見た。高校に入る前までは自分と同じくらいの背丈だった新が、今は由宇より頭一つ分目線が高い。 「ほやの……。東京には、友達いるし。太一と、……千早が」 夜空を仰ぎながら呟く新の表情は、付き合いが長い由宇さえ見た事がないものに思える。 「何やの、新。ぼけーっとして。……友達らかって続けてるんやろ? かるた」 「太一は医学部志望やって聞いてるで、残念やけどしばらく忙しいかも知れんなあ。ほやけど千早は……目標はクイーンやし、将来高校の先生になってかるた部の顧問するんやって夢あるで、絶対かるた止めたりせんやろ」 東京でどんなかるたが取れるかと待ち遠しそうな新の話を聞いているうちに由宇の胸がちくちく痛み出した。 「ほんなら何も心配要らん感じやの。……冷えてもたしもう戻ろ。……おやすみ」 「あ、うん。おやすみ」 くるりと踵を返した由宇の背後で新の家の玄関が閉まる音が聞こえ、由宇は早足で自宅の玄関に飛び込んだ。 「新の……アホ……」 自室の机に戻った由宇は小声で呟いた。 (違う。アホなんは私や……『東京に友達が居るで安心やの』ってそれも本音やけど、どっかで新が否定してくれるんでないんかって……いつかの予選前みたいに『由宇が一番よう知ってるやろ』って言うてくれんやろうかって……どんだけアホなんや、私……) かるた一筋の新に比べれば、年齢相応とは言え由宇の方が精神的に早熟だった事もあり、何かにつけ由宇は新を支え、励ましてきた。祖父の死に負い目を感じて新がかるたから離れた時も、それを責めもしない代わりに安易に慰めも言わず、普段通り接してきたつもりだった。 「ほやけど、新をかるたに連れ戻す事もせんかった……とっくの昔にこっちが南雲会辞めつんてたんやし」 東京の友達が新を訪ねてきた時、新の気持ちを代弁したつもりで自分は二人に札を突き返した。けれど実際新を動かしたのはあの二人───特にあの髪の長い女の子、確かさっき新は千早と言っていたただろうか───の強い思いだ。あの日大慌てで自転車に飛び乗った新は目を真っ赤にして帰ってきた。 『私、ずっと取り柄とか夢とか持ってなくて……だけど、新が言ったの。日本で一番は世界で一番だって。私なんかでも世界一になれるものがあるなら、なってみたいと思ったの……』 札を突き返した時、千早が札を拾いながら言った言葉を思い出す。 「……小学校ん時に聞いたきりの言葉を、何年も信じ続けてかるた頑張ったり、こんな所まで来れるような……ほんな熱意も持ってえんかったの。……新とおんなじ夢は抱けんかった」 由宇は長い長い溜め息をお腹の底から全部吐き出した。 「ああ、もう! こんなグルグル考えてたら不健康や!」 カーテンの隙間から隣をそっと窺うと、新の部屋の明かりが点いているのが見える。由宇は深呼吸をしてから携帯電話を手に取った。 「……え?」 鳴り出した携帯電話のディスプレイを見た新は思わず首を捻った。 「もしもし。……って言うか由宇、目と鼻の先住んでて何でわざわざ携帯やの? 何やったら外出るで、おれ」 『……もう表寒いが。……私まだ受験あるんやざ。外出て風邪なんか引いたら嫌やわ』 「あ……ほうやの。ごめん」 言われてみればその通りだ。自分の合格が決まって配慮が足りなかったと新は素直に詫びる。 『別に謝る事ないけど。……実はさっき聞き忘れた事あったもんやで。ほんで電話したんや』 「ああ、そういう事なんか……ほやけど、由宇が聞き忘れとか珍しいな。……や、いいけど。何や?」 普段の由宇はそういう事は自分よりしっかりしている筈だが、と思ったが、由宇も勉強の続きがあるだろう。あまり長話をしては悪いと新は話を本題に引き戻した。 『学校の友達に……頼まれてたんや。……あ、あんた今好きな子とか居るんかって。ほ、ほんと迷惑な話やろ、こんな時期に……答えるの嫌やったら別にいいんや。そう言うとくし』 (……何やえらいわざとらしい喋りやな、由宇らしくもない……) そこに引っかかりは感じるが、これまでも何かと手助けをしてくれた幼馴染みの由宇に対して嘘は吐きたくなかった。 「……おれにとって由宇は家族と一緒やで、正直に言うけど、……居る」 『へ、へー……居たんや。……私知ってる子やろか』 言っていいものかどうか新は迷う。 (由宇の性格やったら、ほんとに頼まれたんなら直球で聞いてくるか、頼んだ子に自分で聞けって言う筈や。……やで、今聞いてきてんのは由宇本人て事なんやろ……) 「───千早や。去年、おれの方から好きやって言うた。挑戦者決定戦の後」 ここまで正直に言うと由宇を傷つけるかも知れないが、中途半端に誤魔化してもやはり傷つけてしまうだろう。だから新は嘘を吐かない事を選んだ。 『……そう、なんや。……あ、んた、そんな度胸あったんやの……驚いたあー。びっくりしすぎて言葉詰まってもたわ』 長年一緒にいるから受話器越しに届く由宇の声は虚勢を張っているものだとすぐ分かる。 「由宇、さっきも言うたけど、おれ由宇にやで全部正直に話したんや。他のもんにやったらここまで言わん。……ほやで、『その友達にどう話すかは由宇に任す』わ。……ほんでいいか?」 受話器の向こうに沈黙が落ちている。新はそれ以上は何も言わず、由宇から言葉が返ってくるのを待った。 「……分かった。任されとく。新、正直に言うてくれて、……ありがとの」 電話の向こうから新の微かな呼吸音が聞こえてきた。 『由宇───ごめんな』 「……!!」 由宇の心臓がドキンと大きく跳ねた。新が静かに口にした「ごめん」。それは今日の事への詫びではない。「由宇の気持ちに応えられなくてごめん」という意味だ。 「なんも? 謝らんでもいいがの。私かって頼まれただけやし。……そろそろ勉強に戻るわ、ごめんの変な事聞いてもて。おやすみ」 新の返事を待たず、由宇は電話を切った。 「はー……自己嫌悪や……」 携帯のフラップを閉じて由宇は床にぺたりと座り込んだ。新に「そんな度胸あったんや」と言う資格など本当は自分にはない。結局最後まで「友達に頼まれた」という方便を押し通して、「好き」はおろか「実は自分が聞きたい」とさえ言い出す勇気がなかった。 「勇気も、正直さも……足りなんだんや。しょうがないわ……。……仕方、ない事……やったんや……っ……」 由宇の頬を涙が伝い落ちる。 (明日になったら、いつもの私に戻るで。……今だけ……泣かせてや……) 明日には自分に戻る。家族同然と言ってくれた自分に戻る。何度も何度も心の中で繰り返すが涙はなかなか引いてくれない。 ───長い夜になりそうだった。 |