保湿系トライアルセット

Take Me 



 南雲会での練習を終えた新は充実した顔で自転車を漕ぎ、自宅へと向かっていた。大型連休の間は朝から道場でかるたが取れる。加えて二歳下の少年二人が藤岡東高に入学し、五人には満たないものの部を立ち上げる事も出来た。
「今年の近江神宮が楽しみや」
 メンバーが三人きりでは一敗も許されない厳しい状況だが、新はその厳しさごと楽しもうと思っている。自転車のペダルを強く踏み込んで、スピードを上げる。夕暮れの中、自宅の塀が徐々に見えてきた。

 「……え?」
 門の所に、壁に背中を預けて立っている人影があった。最初は由宇かと思ったが、人影は由宇よりかなり背が高い。近付いていく自転車のライトがようやくその人影を照らし出した。
「千早……? 何で、こんなとこ居るんや……?」
 福井に来るという連絡など受け取っていない。それに今の時期なら瑞沢も東京予選に向けて集中的に練習している筈だ。訝しんでいると、耳のいい千早は新の呟きを聞き取ったのか、壁から背中を離してこちらに向き直った。
「……びっくりしたわ。来るんやったら言うといてくれれば、もうちょっと早よ戻ったのに」
 自転車から降りた新が声を掛けると、何故か千早は俯く。手の甲でしきりに目元を拭っているのが見え、新はぎょっとして歩み寄った。スタンドを上げたままの自転車が大きな音を立てて倒れたが、気にしていられなかった。

 「どしたんや……?」
 恐る恐る呼び掛ける。泣いている千早は何度か目にした事があるが、こんなに静かに涙を流している姿は初めてだった。
「……た、太一が……、かる、かるた部……、……かるた、やめちゃった……!」
 そう言うのが精一杯だったのか、とうとう千早は声を上げて泣き出した。
「ちょっ、千早、どういう事や、それ?!」
 予想外の一言に新もつい大声になってしまい、千早の肩がびくんと震えた。
「あ……ごめん、大声出してもて。……とにかく、上がんね。詳しい事教えて、その話」
 倒れた自転車を急いで引き起こし、千早を促して玄関に向かう。項垂れたまま、とぼとぼと千早が後を付いてきた。

 玄関を開けた音で居間から顔を出した母親が、息子の後ろに見知らぬ少女が立っている事で驚いた声を上げた。友達を連れてきたとはしゃぎかけた母を、とても大事な話をするからと新は短く強い口調で遮った。
「……お茶とか、持ってこか?」
「や、いい。……ほんとに真剣な話やで。入んね、千早」
 千早を急かして、新は二階の自室に向かう。余裕がないのか千早は挨拶も忘れて、人形のようなぎくしゃくした動作で靴を脱ぎ、新の後に従って階段を上っていった。

 「……どこでもいいで、座んね」
 部屋の襖をきちんと閉めて、千早が緊張なく話しやすいかも知れないと、新は畳の上に胡座をかいた。その向かい側、ちょうど競技線を挟んだあたりに千早は腰を下ろす。座る、と言うよりは糸が切れてへたりこむような動作だった。
「太一がかるた止めたって、ホントなんか、千早? ……受験勉強とかか?」
 ぱっと思い付くのはその程度だった。千早は俯き、蚊の鳴くような声でようやく口を開いた。
「……退部の理由は、そうなってる」
 それが表向きの口実だと新にもはっきり分かる口調だった。
「けど……、ホントは……私のせいなんだ!」
 膝の上で千早はきつく手を握り込んでいる。新は試合の時のように、心を静めてからどういう事なのかと問うた。

 「……高松宮杯の後ぐらいから、太一元気なくて、辛そうで。……だけど私、何も聞けなくて。新との試合の事さえ聞けなくて。……それでもやっぱり笑っていて欲しかったから、みんなに手伝ってもらって、太一の誕生日に源平戦の大会開いたの」
 瑞沢の仲間や白波会のメンバーだけでなく、須藤暁人や山井真琴などOBを含め、北央や富士崎からも参加してくれたという『太一杯』の顔ぶれは、新には羨ましい話だ。そして千早が他でもない太一のためだけに、そこまでしたのだという事に少し、胸が痛くなる。
「そんなしても、太一、元気ないままやったんか?」
 千早がかぶりを振る。一応はそれで太一にも笑顔が戻ったという事らしい。
「春休みのうちにって思って、カーテン換えに部室に行ったら太一も勉強しに来てて……。それで少し喋ってたら、小学校のかるた大会、覚えてるか、って……」
 懐かしい単語を耳にして表情を緩めかけた新だったが、千早の両手がまだきつく握られたままだと気付いて真顔に戻った。

 「新の眼鏡、隠したのはおれなんだ、って……新に負けたくなかったんだって、言った」
 小学校の玄関先で、『千早には嫌われたくない』と、べそをかきながら眼鏡を差し出してきた太一の顔。それまではいつも偉ぶって、勉強やスポーツの結果をひけらかしてばかりだった太一が、震える声で言っていた、決して誰にも言わなかっただろう本音。あの時の光景が新の脳裏に蘇った。
「……とうとう、言うたんや……自分から」
 それなら自分も千早に言わなければならない。新は深呼吸をして口を開いた。
「太一が眼鏡返してくれた時な、おれ、太一に言ったんや。……お前、卑怯な奴やの、って」
 負けたくないからと眼鏡を隠し、見えていないのをいい事に試合中にこっそり札を入れ替えたりしておきながら、千早にだけは嫌われたくないから黙っていて欲しいと言い出したのは、五年連続で全国優勝したという戦績を話していなかったとは言え、当時の新にしてみれば、ルールを破っておいて何を勝手な事を、と思う出来事だった。
「ほやけど、太一の気持ちも分かる気したで、おれも黙ってた。……内緒にしてて、ごめんな」
 千早は大きくかぶりを振って話を続けた。
「今、新が言った『卑怯』って言葉。太一も言ってたんだ。……卑怯じゃないやつに、なりたかったんだ、って……」
「うん」
「それは……わ、私を……好きだから、って……」
 つっかえながら言われたその言葉に新の両目が大きく見開かれた。

 太一が千早をどう思っていたかは、小学校の頃から新にはよく分かっていた。だから再会して以降も高二の吉野会大会の前までは大会結果のメールや試合観戦のお土産は太一宛てにしてきた。それでもこうして改めて聞かされると、心がざわついて落ち着かなくなる。
「千早は……何か、答えたんか……?」
 それを聞くのは正直怖い。
「うん……。私ね、太一にそう言われた時、ふっと思い出したの。……うちの部のかなちゃんに言われた事」
 一人黙って高松宮杯に出た事を「言えないのが太一だ」と答えた時、奏は言った。「そう思ってしまったら、そこで止まってしまうから、千早ちゃんだけでも考え続けてあげて下さい。なんで、なんで……と」。だから千早はずっとその「なんで」を考え続けてきた。
「答えなんて、分からなかったけど……片付けないまま私は私のかるたを、って……新春大会の時とか、そんな風に思ってた。だけど太一が答えを求めてきた時、私……思ったの。新はあの時、どういう意味で一緒にかるたしよう、って言ったのか、って」
 自分の告白を持ち出され、話を聞いていた新は正座で座り直した。






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written by Hiiro Makishima