保湿系トライアルセット

うましみづ 



 午前中の講義が終わり、いつも通り昼を待ち合わせる学食の自販機前で千早は伸び上がり周囲を見渡す。几帳面な性格の新は講義が伸びたりで待ち合わせ時刻に遅れる時は必ず携帯に連絡をくれる。時には「遅れる」と電話で話している最中に本人が待ち合わせ場所に到着するという事もあるぐらいだが、今日は何の連絡もなく待ち合わせた時間からはもう十五分以上過ぎていた。
「やっぱ何か変だ。……連絡、入れてみよう」
 千早は鞄から自分の携帯を取りだして新の番号を呼び出す。
『───ただいま電話に出られません。発信音の後にメッセージを録音してください』
 何度掛けてみても、受話器から聞こえてくるのは新の声ではなく留守電メッセージばかりで、心に不安がよぎった千早は携帯を鞄に放り込むと学食を飛び出し、新のアパートへと全力で駆け出していった。

 まだ寒い時期だというのに、ここまで駆けてきた千早の額にはうっすら汗が滲んでいる。
「はぁ、はあ……」
 手の甲で乱暴に汗を拭い、新の部屋の呼び鈴を押すが反応がない。ドアノブを回してみても施錠の手応えが返ってきた。
「……っと、そうだ、鍵!」
 以前、千早の通学時に何かあればこの部屋に来て内鍵で安全確保すればいい、と新から合鍵を受け取っていた事を思い出し、千早は鞄のポケットを大慌てで探りキーホルダーを引っ張り出して解錠する。鉄扉の音が大きく響くが構ってなどいられなかった。
「新?! いる? ……ごめん、入るよ!」
 ばたばたと作り付けのキッチンを横切り、奥の和室との仕切りになっている襖を開ける。
「……新っ?!」
 敷かれたままの布団の中に、酷く赤い顔をした新が横になっている。枕元に膝をついて肩を揺すろうとした千早はその手を新の額に当てた。
「酷い熱……! す、すぐ原田先生呼ぶから!」
「……ち、はや……? ……っ、ゴホっ、ゲホンっ!」
 ようやく薄目を開けた新は身じろぐと同時に激しく咳き込んでしまう。そのまま寝ていて、と短く言い置いた千早は鞄から携帯を取り出し原田の番号を呼び出した。

 「ああ、千早ちゃん。メガネくんの熱が高いんだって?」
 往診鞄を手にアパートへ駆けつけてくれた原田は新の枕元にどっかりと座り込んだ。
「メガネくん? 私だ、原田だよ。ちょっと診させてもらうからね」
「……はらだ、せんせい……?」
 酷い掠れ声で新は答え、手探りで眼鏡を探す。千早が素早く新の枕元に畳んで置いてある眼鏡を取り、寝ている新の顔にそっと掛けた。
「確かに熱が高いね。節々が痛むかい? お腹や喉は? ……どれ、ちょっと口開けて」
 原田は手早く聴診器を当て、新の喉を診る。
「……扁桃腺が腫れてるね。昔から風邪を引くと、高い熱が出る方かい?」
 新はしばらく考えた後、首を縦に振る。そう頻繁に風邪を引く訳ではないが、確かにその都度高熱が出て咳き込んでいる。
「まあ熱は高くなるけどね、下がってしまえばケロっと治るよ。栄養付けてちゃんと休む事。……もし食事が取れないなら、病院の方に来なさい。点滴するから」
「……はい、ありがとう、ございます」
 無理に声を出さなくていいと新に告げた後、原田は部屋の中をざっと見回す。

 「空気が乾燥していると辛いだろう。少し部屋の湿度を高くすると喉は楽になると思うよ。氷枕なんかは持ってるかい?」
「……あ、いえ……まだ、買ってなくて……」
 こちらに出て来た時、絆創膏や湿布などは一通り買っておいたが、そこまではまだ揃えていなかった。
「あ、じゃあ後で私買ってきます! 先生、他には?」
 千早がメモを手に聞いてきた。
「他にかい? ……まあ水分と栄養補給は必要だから、喉に優しい食べ物とスポーツドリンクなんかはあるといいね」
 メモを取り終えたのを見た原田が床から立ち上がる。千早は原田を送りに玄関の外に一旦出た。
「先生、さっき扁桃腺って言ってましたけど……普通の風邪じゃないって事?」
「いや? 普通の風邪だよ。ただ一旦風邪を引くと扁桃腺が腫れるから熱が高くなりやすいんだ。まあ逆に言えば扁桃腺で食い止めているから、長引かないんだけどね。熱さえ下がれば元通りだから心配ないよ、千早ちゃん」
 原田は新が楽になりそうないくつかの事を千早に伝え、駅への道をのしのしと帰っていった。

 「……新?」
 部屋に戻ると新が布団の中で身体を起こそうとしている所だった。
「寝てなきゃダメだって。何か欲しいんなら私取ってくるから」
 慌てて新の肩を押さえ、寝ているようにと千早は言う。
「え、いや……トイレ行くだけやし……」
 さすがにそればかりは代わりにどうこう出来る物ではない。千早がバツが悪そうに手を離すと新はゆっくり身体を起こした。
「……ごめんな、心配させてもて。けど、駆けつけてくれて、原田先生呼んでくれて、ありがとう」
 部屋に戻ってきた新は布団に入る前にきちんと正座になって頭を下げてきた。
「お礼言われるような事じゃないよ。私ちょっと、原田先生に言われた物とか買いに行ってくるから、新、寝てて」
「……うん」
 この体調では自分で買いに行くとも言えず、新は言われるまま眼鏡を外して布団に潜り込んだ。
「ごめん、ちょっと押し入れ開けるね?」
 千早は衣装ケースから取り出したタオルを絞って戻り、新の額にそっと乗せる。やはり熱が高くて辛かったのか、新の口からほっとした息が零れるのが聞こえた。
「……ありがとう。冷たくて気持ちいいわ……」
「良かった。じゃ、ちょっと行ってくるね。なるべく早く戻るから」
 言い置いて千早はアパートを後にする。遠ざかる足音を聞きながら、新の目蓋はまたゆっくりとふさがっていった。

 「……ただいまぁ」
 千早が静かに襖を開けると、新は買い物に出た時とほとんど変わらない姿勢で眠っている。
「あ、タオルがもう冷たくない……」
 使い回しが利く氷枕を冷凍庫に入れ、タオルを絞り直して新の額にまた乗せる。息苦しくて口呼吸になっているのか、眠っている新の唇がかさかさになっている事に気付く。
「……水、飲ませてあげないと辛いかな……」
 千早の視線は買い物袋と新の間を何度も往復する。ペットボトルのスポーツドリンクは寝たままでは飲めない。頭を持ち上げて飲ませようかとも思ったが、それでも多分ボトルを傾けたら零れてしまうだろう。
(どうしよう。……新、呼吸苦しそう。でも起こすのも……)
 ふと思いついて、千早は一度立ち上がり台所で手を念入りに洗い、わざと濡らしたまま枕元に戻ると、指先でそっと新の唇を湿らせる。
「……ん……」
 無意識だろうか新の唇が動き、指先から伝った水滴を飲み込んでいく。
「……」
 掠れて酷く聞き取りづらいが、目を閉じたままの新がもっと水をねだっているのが千早の鼓膜に届く。
(そうだよね、酷い熱だもん……喉だって渇くよね……)
 思い切って千早はペットボトルのキャップを開けた。





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written by Hiiro Makishima