保湿系トライアルセット

Remorse 5



 「……綿谷ぁ、ちょっと……いいかぁ?」
 高校入試を目前に控えた三学期の初め、翔二が探るような口調で話しかけてきた。
「別に、いいけど。……何やし」
 夏前に殴り合いになって以来、顔を合わせると翔二の態度がぎくしゃくしていたが、普通に呼び掛けてくれればいいのに、と思いながら新は言葉を返す。
「ん、おれら、じき卒業やが。ほやでその前に、もっぺんちゃんと謝っとこうって思ったんや。夏前に、お前より先にA級上がれて舞い上がっつんて、じいちゃんの事で酷い事言っつんて……済みませんでした」
 卒業するまでに蟠りを解消したいのだと翔二は律儀に頭を下げてきた。
「や、別に……気にしてえんし。翔二かってもう、気にせんといてや」
 本当の所は気にしていないどころではない。
『名人のじいちゃん、自慢やったんやろけど、今となっては逆やなぁ。すっかり足手まといになってもて。……えん方が練習出来ると思ってるやろ───』

 あの時翔二の吐いた言葉は今でも新の心に突き刺さったまま、じくじくとした痛みを新に与え続けている。だが当の翔二がこうして頭を下げてきている以上、気にしていないとしか答えようがなかった。
(……気にしても、せんくても……もう、じいちゃん居らんのは変わらんし……)
「ありがとの……新」
 胸のつかえが取れたのか、すっきりした顔で翔二は礼を口にしてくる。曖昧な顔でそれに返しながら、新は心の中で早く一人にして欲しいと願う。しかし安堵した翔二は逆に、受験勉強はどうだとか、志望校が違うがお互い頑張ろうと言ってなかなか新を解放してくれない。
「翔二、悪いんやけど……おれちょっと、用事あるで。話、また今度にしてや」
 堪りかねて新は適当に理由をでっち上げて翔二の話を遮った。
「え、あ。ほやったんか。悪い。ほんなら、またの」
 翔二が自分のクラスに戻ると、新はゆるゆると息を吐き出した。

 その夜、新は夢を見た。どこだか分からない場所を彷徨っている新の前に、人影が二つ現れる。
「……じいちゃんっ?!」
 後ろ姿だけとは言え、新が見間違える筈もない。そしてもう一つの人影は、祖父のライバルで親友だった佐藤先生だと気付き全速力で駆け寄った。
「のぉ、ここ、どこなんや? じいちゃん。……佐藤先生?」
 何度呼び掛けても気付いてくれず、祖父と佐藤先生は二人で談笑を続け、二人の会話は何故か新の耳には届かない。二人の話の邪魔はしたくないが、ここがどこか分からないのでは身動きが取れないと、祖父の肩を揺すろうとして手を伸ばした時、ずっと新に背中を向けていた祖父が少しだけ新の方に身体の向きを変えて口を開く。
「───じいちゃんえん方が、練習出来るやろ」
 伸ばし掛けた手がぎくりと止まる。
「な、んで……ほんな事言うんやし、じいちゃん?! 思ってえん、ほんな事思ってえん!」
 いつの間にか祖父は再び新に背を向けて佐藤先生との話に戻っている。新は叫んだ。
「のぉって、聞いてや、返事してや! おれA級なれたんや、やっと名人戦にも挑めるんやざ! 何か言ってや、また一緒に作戦考えてや! ───じいちゃんっ!」
 けれど祖父も佐藤先生も、時には笑いながら言葉を交わし、背後で叫んでいる新の存在さえ居ないかのような振る舞いだった。

 喉の奥から絞り出すように祖父を呼びながら、新は跳ね起きた。頬が涙でぐっしょりと濡れている。
「はぁ……はぁっ……夢、か……」
 背中が汗でじっとりと湿ってひどく気持ちが悪い。悪夢にうなされた理由は考えるまでもなかったが、現実ではないにせよ祖父の口からあの言葉が出た事に夢の中の自分はショックを受けた。しかし目を覚ました新は夢の中で自分が叫んだ言葉にも衝撃を感じていた。
「……おれは、まだ……かるたに未練なんか、残ってたんか。……戻れる訳、ないのに……」
 今年の正月にも千早からは「かるたを頑張っています」という、干支を間違えた年賀状が届いていたが、新は返事をついに出せなかった。白波会を辞めた太一からは一年前から賀状のやり取りは止まっていたが、今の新には太一のその素っ気なさの方がむしろ安堵出来た。
「千早も、もう忘れてくれていいんや。……東京のアパートで取ったかるたの思い出だけあれば、おれはもう、ほんでいいし……」
 また涙が頬を伝う。汗ばんでいた身体が夜気に触れて冷えてきた。新は衣装ケースからタオルと換えのパジャマを出してきて着替え、もう一度布団に潜り込んだが眠気は一向にやって来なかった。

 「新、顔色悪いんでないか?」
 翌朝顔を合わせた途端、由宇に言われた新は「夕べ少しうなされた」とだけ答える。結局あの後まんじりともせず朝を迎えてしまったのだから、顔色が悪くなるのも当然だった。
「昨日、翔二が夏前の話持ち出して来たでか。まあ翔二の気持ちも分かるけどの。進学先違うし、ぎくしゃくしたまんま卒業しとなかったんやろ。あんたかって気にしてえんって答えつんたんやしの。……まあ建前やろけど」
 やはり由宇には新の本音がどこにあるかも見抜かれているようだ。新は少しバツの悪そうな表情を浮かべて頷いた。
「夢ん中にじいちゃんが出てきたんやけど、おれがどんだけ呼ばっても聞こえてえんくて。しょうがねえで肩揺すって呼ばろうとしたら、ちょっとだけこっち向いたじいちゃんの口から……『えん方が練習出来るやろ』って……。おれ真夜中に大声上げて目ぇ覚ましつんたんや」
「……それは……寝付けんくても、しょうがないかもの。何があったかって綿谷先生はずうっと、新にとっては大好きなお祖父ちゃんなのは変わらんのやで」
 由宇はやや曖昧な言い方をしたが、意味する所は十分伝わる。新が頷くと、由宇の小作りな手がバレー部仕込みのスナップを利かせた動作で背中を勢いよく叩いてきた。

 「痛ってえ! ちっと加減せえま、由宇。バレー部のお前が叩くとマジで痛いわ」
 パン、と鋭い音が背中から聞こえると同時に、新は盛大に顔を顰めた。
「ほんだけ悪態吐けるんなら、大丈夫やの」
 悪びれず由宇が返してくる。それからふっと柔らかい表情を新に見せた。
「……ただの夢や。ほんとの先生の事は、あんた一番良う分かってる筈やが?」
「うん。ほうやな。……ただの、夢や。ただの……」
 新は自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。
「さ、学校行こっさ。遅刻してまう」
 言いながら由宇は新を待たずにスタスタ歩き始めた。その背中を新はゆっくり追いながら、本音の部分では祖父自身、自由の利かない身体の事をどう思っていたのだろうかとふと考えていた。





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written by Hiiro Makishima