保湿系トライアルセット

POSSLQ 3



 そして秋。一足先に採用試験の合格通知を受け取っていた新の部屋に、運転免許を取得した時より勢いよく玄関を開けた千早が駆け込んできて、新に飛び付いてきた。
「やったよ、新! ちゃんと先生に、なれた……よ……っ、う、ひっく……、なれる、んだ……」
 おめでたい日に泣くなんて、と言いながらも頬を濡らす涙は止まらない。
「おめでとう、千早。泣けばいい日やから。今日は一杯泣いていい日やから。……本当に、おめでとう」
 千早をしっかり抱き留めて告げる新の視野もじわりと滲み、睫毛を重くしている熱を感じる。
「……こんないい話、玄関でって勿体なさすぎやな。上がんね?」
「うっく、ひいっく……お、邪魔します、うええぇん」
 ぼろぼろ泣く合間に普段の挨拶がサンドイッチのように挟まっている。何度も涙を拭って濡れている千早の手を優しく引いて、先導するように部屋に移動した。

 畳の上にへたり込んだ千早はまだわんわん泣いたままだ。新は隣に腰を下ろして肩を抱く。
「今日は晩飯おれが作るでの。……お祝いなんやから拒否権なしや」
「ひっく、……うん。うぇぇん、けど何か、う……っく、変だ、よお……うわぁぁん」
 しゃくり上げる合間に「お祝いなのに拒否権なしという言葉は変だ」と千早が言い返してきた。
「ほんなとこ拘らんでいいがの。素直に祝われときね?」
「お、お祝い、されとくー……。あ、あり、っ、がとう……」
 普段通りに声を出すにはまだ時間がかかりそうだ。落ち着くのを待ちながら、新は冷蔵庫の中身を記憶から抜き出して、千早のお祝い用に何を作ろうかと考えを巡らせる。

 (……あ、そうや)
 メニューはともかく、一つ閃いた。スーパーとの行き帰りに通る道を少し変えれば「閃いたもの」はすぐ見つかるはずだ。
「千早、お茶飲むか? あったかいやつ」
 泣き通しでお腹が引き攣れているらしい千早に何か落ち着けそうな物を飲ませたいと思い、新は尋ねた。
「うん……洗面所、借りて、いい?」
 いいよと答えて新は台所に向かう。今日は嬉しい日だから来客用の湯飲みで出そうかと一瞬考えたが、次の瞬間それを引っ込める。
「……こっちの方が、もっと今日に合うてる」
 東京に越してきたばかりの頃に引っ越し祝いと言って千早がくれた物だが、新が千早専用にしたマグカップ。自分の新生活を祝ってくれたカップで今日は千早を祝う方が相応しい気がして食器棚から取り出した。

 「うわ、目と鼻がまだ真っ赤……」
 洗面所から戻ってきた千早に丁寧に淹れた暖かなお茶を手渡し、淹れていた間に一つだけ気になった事を問う。
「受かったって家の人にちゃんと報告した?」
「うん。通知届いた時お母さん一緒に居たから。みんな休みの日に改めてお祝いしてくれるって。それから新に知らせてくるって話してから来たよ」
 それを聞いてホッとした。こんなに大事な報せは真っ先に家族へ伝えるべきで、自分はその次で構わない。それにこの先、新の地元で共に生活していくのだから、いい報告は何であれ一番に聞けるだろう。
「原田先生は驚かせたいから、次の練習日まで内緒。新も黙ってて?」
「了解」
 新は笑ってその企みに頷いた。

 「先に言(ゆ)っとこ。今日は絶対おれ一人で買い物行くでの? ネタバレとか嫌や」
 もし付いてきたらUターンして部屋に帰るとまで言って釘を刺す。
「ネタバレ禁止なら仕方ないかあ。留守番してる間にご飯いらないよってメールしようっと。新が気合い入れて作るからー、とか」
「うん。お利口さんにしてて」
 だから何で子供扱いなの、と頬を膨らませる千早に一つ笑いかけ、ジーンズの後ろポケットに財布がある事を確認してから新は部屋を後にした。
「さてと」
 普段はスーパーまでの最短ルートを歩くが、今日は、と新はさっき閃いた通りに迂回した。程なくして公園のフェンスが見えてくる。
「確かあの辺に……あ、あった」
 植え込みの中に美しく色づく紅葉を見つけ、足早に近付いて特に鮮やかな色の葉を二、三枚頂戴すると折れたりしないよう慎重に財布の中に仕舞い込んだ。

 「こんな感じの赤や、って言ってたもんな」
 千早にとって特別な一枚、「ちはやぶる」。その特別な一枚は競技線の中でいつでも真っ赤に見えていると口にしていた。だから今日作るお祝いの夕飯に添えようと、少しだけ時間がかかる道を選んだ。
「……からくれなゐに水くくるとは、か」
 初めて千早とかるたを取った日。その札はもう「ちはや」に見えるのだと話し、十七歳で出た挑戦者決定戦の後聞いた力強い一言は、自分の中にあった想いに言葉を与えてくれた。だから「千早振る」は新にとっても特別なものだ。
(おれらには出発点やもんな、この歌)
 今日を祝うのにこれ以上の紅はない。そんな事を思いながら今度こそスーパーへ向かって歩きだした。

 「ただいま」
 鉄扉を開けると襖越しに、よく通る声がおかえり、と返ってくる。普段はちゃんと襖を開けて言ってくるがと少し訝しみながら買ってきた食材のいくつかを冷蔵庫に仕舞う。
(手でも塞がってたんかな。……あんま気にせんとこ)
 時間が掛かるから先に下拵えしようと網に入っている栗を調理台の上に置いた時、襖を開けて千早が顔を覗かせ、新は大急ぎで調理台の上にレジ袋を被せた。
「もう一回、おかえり。新」
「た、ただいま。……どしたんやし、二回も」
 千早が目を煌めかせて口を開いてくる。
「ネタバレ禁止だよね?」
 どうやら冷蔵庫の扉が閉まるまで、わざと顔を見せなかったようだ。一本取られた気分で新も苦笑を頬に押し上げた。
「うん。ほやから早よ部屋戻って。飲み物とか欲しかったら声かけてや。持ってくで」
「はあい。楽しみにしてるね」
 VIPみたい、と言いながら千早が襖を閉めてくれ、新はようやく栗の皮を剥いて水に浸す。
(女なんやし、お姫様みたい、とか言えばいいのにの。あ、そやった。折れるとあかんし紅葉出しとこ)
 注意深く水道で葉を綺麗にしてから小皿の上に置く、それだけでも秋らしい、と新はふっと笑んで次の下拵えに取りかかった。

 布巾を手に襖を開けた新は折り畳みテーブルの脚を立てて部屋の真ん中に据えた。
「次に襖開けたら、おれがいいって言うまで目つぶっといて?」
 せっかくネタバレ禁止にしたのだから、できるだけその時間を引き延ばそう。新はそんな事を考えて子供のような提案をする。
「こんな感じ?」
 千早が両方の手の平で目を隠してみせる。下に隙間があるような気はするが、まあいいかと思いながら台所へ戻った。
「開けるでの」
 一声かけて細く開けた襖から顔だけ出して中を覗くと、言いつけ通り千早は両手で目を覆ってくれていた。襖を全開にして一番重い炊飯器をまず運び入れ、何度か往復して盛りつけが崩れないよう注意深くテーブルに並べ終わった。
(これは、まだ見せんとこ)
 最後に紅葉を乗せておいた小皿を持ってきて、テーブルの下へ隠す。

 「……目、開けていいざ」
 新の声で両手を顔から離した千早がテーブルの上に視線を落とす。
「うわあ、本格的! 美味しそう……!」
 和食のみで揃えた今日の夕飯に、新にも嬉しい言葉が飛び出した。
「ご飯は、これな。お代わりあるでの」
「栗ごはん!」
 自分の分の茶碗を受け取った千早が栗ご飯の優しい香りを深く息を吸い込んで楽しんでいる。それに笑いながら新も自分の茶碗をテーブルに置き、一度姿勢を正す。
「教員採用、本当におめでとうございます、千早」
「ありがとうございます。いい先生になるよう頑張ります」
 きちんと背筋を伸ばした千早がそう返事をしてくれ、新は穏やかに笑んだ。

 「これも、お祝い」
 テーブルの下から紅葉の小皿を手に取った新は、千早の前にあるブリの照り焼きの側に一番綺麗に色づいている葉をそっと添えた。
「きれい……『ちは』の色だ……」
 千早はすぐに紅葉を添えた意味を察したらしい。その深い紅に柔らかな眼差しを向けながら、しっとりした声音を紡ぐ。
「私たちの原点。新が教えてくれて、私の夢が始まった、最初の一枚」
「……うん。まだまだ叶えたい夢、千早は一杯持ってる」
 これまでにもあったように、時には壁に行き当たったり躓いたりする事もあるだろう。
「初心忘るべからず。それがあればまた頑張ろうって、一歩ずつ頑張ろうって。何度でも」
 瞳に強い光を湛えて千早は言う。が、突然その唇が尖り、新は訝しんで尋ねた。
「ちょっとだけ不公平かなあ、って。……海なんて持ってこれないじゃん」
 膨れて言うそれに新は堪えきれず吹き出してしまう。
「真似んでもいいがの」
 これから先「わたのはら」は一緒にいくらでも見られる。そう言って冷めないうちに、と千早に勧めた。



POSSLQ = Person of the Opposite Sex Sharing Live Quaters


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written by Hiiro Makishima