Mine 4
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「──綿谷」 ややあって、名が呼ばれた。 「はい」 一拍の間が空いた後、出水の声が耳に届く。 「そんな価値観、捨てちまえ」 「え?!」 まるっきり予想していなかった言葉に新の声が裏返った。 「お前ら、一緒に生きてくって決めてるよな。……その決心の前じゃ、結婚しているかどうかなんて紙切れ一枚の差でしかねえぞ」 驚く新を尻目に、それにな、と出水の話は続く。 「さっき、綾瀬の裸想像してマスかくって答えたろ。俺も理解は出来るけどな、その一番興奮する材料は、同時に綾瀬とやりたいって欲求に直結してる事だよな。ビデオやエロ本は相手に手が届かねえが、お前のオカズは実物がすぐ側に居る。それ、お前の欲がお前自身の価値観や自制心を揺さぶって試してるとも言えねえか?」 「……」 言われればその通りかも知れない。結婚してからと思ってはいても、逆に新の裡にある欲を駆り立てるものと言える。新の沈黙をよそに出水はさらに言葉を継いできた。 「その価値観に縛られすぎて我慢続けてりゃ、何かちょっとした切っ掛けで、お前が今度こそ本気で……それこそ暴力振るってでも綾瀬を犯す事だってあり得る。もしそうなれば、復活も修復も出来ねえ、そんな決定的な別れしかその先には待ってないぞ」 新は何も言い返せない。実際あの時も、このまま挿入して射精したいという欲が新の中にもあったから。出水が言うように、価値観に合わないというだけの理由で欲望を押し留めているのは、薄氷の上に立っているようなものだ。 「実際、お前らが一番好きだって公言してる、かるたでさえ影響出ちまってるだろ。このまま行くと、お前ら二人とも壊れちまうぞ」 「壊れる、ってどういう意味ですか」 その単語に今ひとつピンと来ず、新は問うた。 「言葉通りの意味だ。お前らの気持ちも、付き合いも、かるたも……夢もな」 夢、と答えられて新の胸が痛くなる。初めて言葉を交わすより前から、ずっと抱き続けてきた夢。それすら壊れてしまったら、新の心には本当に何も残らなくなるだろう。 「もちろん、別れるって選択もあるさ。二人でじっくり話し合っての別れなら、結論が出る分まだ心は乱れねえだろうしな」 「……」 新と千早がそれを選ばない事を出水は読み切っていた。その証拠に目の前の新は今の一言を受け容れられないと、顔が強張っている。 「だったら、お前が出来る事は一つだな」 「一体、何ですか先輩。……おれ、千早の気持ち楽にしてあげたいのに、自分に何が出来るんか分からんのです。おれが何かする、それ自体が千早をまた傷つけるんでないか、って……それが怖くて、一歩も踏み出せんくなってるんです……」 出水が言う「一つ」に縋るように新の口から言葉が迸った。 「目的意識と言うか、理由はちゃんと持ってるだろ、お前。綾瀬の気持ちを軽くしたいんだって。そして動機も明白だ。どうしてお前が綾瀬を犯す一歩手前までの事をしたか」 「……はい。天真爛漫さは千早の魅力やと思いますけど、スカート履いてる事に無頓着やったり、危機感持たんのは問題やから、おれもそれは話しました」 ただ分かってもらえていなそうで、実力行使に訴え出てしまったが。 「おれは千早が好きです。千早が許してくれるんなら、守ってやりたいとも思います。……ほやけど千早自身がそういう事招いてもたら、おれは守りようがなくなる。ほんな事が起きた後に慰めたかって、千早の傷が癒える訳でない。……おれは、そんなのは嫌です」 いつの間にか新は俯いて、涙を零していた。 「だから伝えるんだよ。……綾瀬が安心できる形でな」 「……安心できる形って……どうしたらいいんですか」 顔を上げて新は尋ねる。 「二人とも照れ屋だからなあ。言えた事の裏に、相当あるんだろ。切り出せなかった事」 「……否定は、できません。おれは特に口下手やから、一般論で分かってもらえたら、って考える面が、あります」 出水は「照れる事に逃げたりせず全て伝えろ」と告げてきた。 「全てって、おれの気持ち変わってえんとか、おれが持ってた価値観とか、こないだ言った、何で無防備さが危ないんか……そういうのを千早に全部言うって事ですか」 照れずに伝えろと言われる筈だった。無防備さについての話以外、あの日言わずにいた事ばかりだ。そして「照れる事に逃げている」という出水の言葉は的を射ている。新は目元を乱暴に擦って頷いた。 「俺がさっきした質問よりは言いやすいだろ。露骨な単語使わなくてもいいんだしな。まあ誤解の余地がなくなるから、必要なら使うべきだと思うがな」 「……おれも正直、答えづらかったです。先輩に釘差されてえんかったら、なんも言えんかった気します」 だろうな、と出水はようやく普段の豪快な声で笑う。それを耳にして新の顔にもようやく苦笑が浮かんだ。 「先輩。言われんかった事って……千早にもあった、って事ですか」 表情豊かに話している千早にそういう面があるのかどうか、新は普段そこまで考えていなかった気がする。 「そんなもん当たり前だろうが。俺だって茶室で嘘は吐かねえが、言えずにいる事ぐらいはあるぞ」 誰も彼もが全てあけすけに話していたら、成り立たない人間関係だってある。 「誤解させたくない、信じてもらいたい……そう思う大切な相手にだけでいいんだよ。包み隠さねえで伝えるのはな」 「はい。話してきます」 静かな決意が新の表情を引き締めた。大丈夫そうだと見て取った出水はそろそろ帰宅しろと告げる。 「あー……まあ、言ってねえ事と言えば、そうだな。……お前の作法は、なってねえ」 「……す、すみませんでした……勉強してきます」 出水の大笑いを背中で聞きながら、新は茶室を後にした。 「うおーい、綿谷」 先日茶室に呼びつけた時とは逆に、気の抜けそうな声で出水がこっちに来いと呼んでいた。 「はい。何ですか? 先輩」 「ほらよ」 近付いた新に向かって、レジ袋がぽんと放り投げられた。開けてみろと言われて新はその中を覗く。袋の中には紙袋が入っている。その中も見ろという事なのかと紙袋の口を開けた。 「え、ちょ、先輩? なんで、こんなもん……」 出水が投げて寄越したのは箱入りのコンドームだった。新は目を白黒させてその顔を見る。 「ん? この前話したろ。安心がー、とか」 そこで出水はぐっと声を落としてきた。 「もしかしたらアイツの中にまだ、お前への恐怖心が残ってて……それを払拭するために優しく抱くって事も有り得るだろうが」 実際使うかどうかはともかく可能性がある以上必需品だ、と真面目な口調で告げられる。 「そんな可能性、あるんかどうかさえ今は分かりませんけど……、この前言ってもらった事は、ちゃんと話します」 それを聞いた出水がまた普段の調子に戻った。 「照れ屋のお前じゃ、どうせ買うのも一苦労だろうからな。俺が一肌脱いだって訳だ。恩に着ろ、恩に」 「えっと……その。ありが、とう……ございます」 物が物だが、新への思い遣りには違いない。ぎこちなく礼を口にして新は更衣室に向かう。手渡された物はバッグの一番底に押し込んで練習場を後にした。 自室に帰り着いた新は携帯を取り出してメール画面を開く。まだ返事を送っていない千早からの短いメールを見て胸が痛む。一度深呼吸をしてそのメールの返信機能を呼び出した。 『明日、ここで会ってほしい』 それと時間だけを書いて送る。少し時間が空いた後で、たった一言「はい」とだけ書かれた千早からのレスが届いた。 (……会っては、くれるんやな……) それでも「何のために」会ってくれるのか。許さないと言うためか、自分を再び受け入れてくれるのか。どちらなのか新には判断のしようがない。 「けど、受け入れてくれるんなら、おれは……自分の価値観を話した上で、捨てる。千早がそれで安心出来るんなら、何でも話す」 茶室で言われた時は受け容れられない話だったが、全て話す、そして千早の言葉も最後まで聞くと決心して以来、少しだけその気持ちは変化していた。千早がもう耐えられないと言って来たら、顔を見るのも辛いなら、甘んじてそれを受け、別れてもいいと覚悟を決める。 「明日、おれらがどうなるんか、なんて分からん。ほやけど、どんな事でも、ちゃんと全部……伝える」 誤魔化さない、逃げないと自分に言い聞かせ、新は明日を待った。 |