保湿系トライアルセット

乱り風 



 次の講義の教室へ向かおうと廊下を進む新は、少し前の方にすらりとした後ろ姿を見つけて足を速めた。
「千早」
 肩をぽんと叩いて呼びかけると、千早がゆっくり振り返った。
「……あ、新。……おはよ……」
 いつもの千早なら新が肩を叩くまでもない。自分が千早の後ろ姿を見つけた時の距離でも名前を呼べば、それが新の声だと聞き分けてしまえる天性の聴力が彼女には備わっている。
「どしたんや千早。何かボーっとした感じやけど……」
「んー……何だろ、ちょっと身体だるいって言うか……疲れてる訳じゃないんだけど……」
 黒目がちの大きな瞳にも、普段の覇気が欠けているような印象を新は受けた。
「夕べちゃんと寝れたんか? 朝飯ちゃんと食ったんか?」
 千早はこくりと頷く。

 「でも今朝ね、昨日の残りのカレー食べたんだけど……なんか味がイマイチでさ。やっぱり夕べ私が焦がしちゃったせいかなあ……」
 千早のかるた好きが高じて時々考え事のあまり鍋の中身を焦がすとは新も聞いた事がある。だが香辛料を多く使うカレーの味が変に思える程焦げていたら、もはや食べられないのではないかという気がした。
「……今、ちょっと揺れなかった? 建物」
 地震かな、と言う千早の顔が普段より火照っている気がする。かるたの練習で上気する所は見慣れているが、それとは違うものを感じ、新は千早の額に手を当てた。
「千早、えらい熱やが!」
「……え、熱? ……あれっ?」
 突然がくんと膝が崩れた千早は床の上にぺったりと座り込んでしまった。慌てて新が腕を取って支えようとしたが、千早の身体は力が入らずぐらついている。新は千早の上体を片腕で支えたまま、ポケットを指先で探って携帯電話を取り出し、電話帳画面を開く。

 「原田先生! 綿谷です。千早が酷い熱出してて……。え? はい。今、大学に。……一番近くですか? ……やったら多分、おれんとこやと思いますけど、住所……あ、そうです、そこです。はい、ほんなら休ませときますんで……はい、お待ちしてます」
 通話を終えた新は千早の腕を取ったまま身体を反転させた。
「原田先生、診に来てくれるって。……うち連れてくざ。こっからやったら、おれんちが一番近いで」
 しっかり掴まるように言い、新は千早の身体を引き上げる。ぐんにゃりとした重みを背中で支え、片膝ずつ慎重に床から立ち上がって、一度軽く背中を揺すりバランスを取ると今歩いてきた廊下を大股で引き返し始めた。
「……新、悪いよ……新だって、講義受けないと……単位……」
「千早の方が大事や」
 背中で何か言いかけた千早を短い言葉で制し、新はアパートへの道を飛ぶように進む。額に汗が滲むがそんなものに構ってなどいられなかった。背中に伝わる千早の熱は急ぎ足で上気した自分よりも熱い。

 玄関扉を急いで解錠すると、靴を脱ぐのももどかしく室内に踏み込む。布団を敷くために負ぶっていた千早を畳の上に下ろすと、千早は壁に背中を付けて寄りかかったが、そのまま支えきれずにずるずると倒れ込んでしまった。
「千早、聞こえるか? 今布団出すでの、あとちょっと辛抱してや?」
 大きな声で呼びかけながら押し入れに仕舞った布団を乱暴に広げると、千早を抱え上げてその上に寝かせ、彼女の靴を脱がせて玄関に持って行く。
「あ、なんか冷やすもん……」
 固く絞ったタオルを一本持って戻り、千早の額に当てる。ひんやりした感触に千早が安堵の息を吐いたように聞こえ、新の口からも同じような息が漏れる。
「じきに、原田先生来るでの?」
 半分は自分自身を落ち着かせたくて新は小さく呼びかけた。
「……うん……」
 弱々しいが千早の声が確かに耳に届き、落ち着きを取り戻した新は掛け布団の上から千早を手のひらでぽんぽん、と子供をあやすようにリズミカルに叩く。そうして原田の到着を待っていると、玄関のベルがようやく鳴った。

 「ああ、メガネくん。千早ちゃんは?」
 ドアを開けると挨拶もすっ飛ばして原田が往診鞄を手に上がってきた。
「こっちです」
 元からそう広くない部屋だけに、案内する新を追い抜く格好で原田は千早の枕元にどっかりと座る。
「千早ちゃん、熱出たんだって? ……じゃあちょっと聴診器当てるよ」
 原田の一言に、新はくるりと身体の向きを変え、二人に背を向けて座り直した。
「ご飯は食べてるね? ……んー、うん、服はもう下ろしていいよ。じゃちょっと口開けて。はい、もういいよ。お腹痛いとか関節が痛いとかは? ……」
 手際よく問診と診察を終えた原田は、もうこちらを向いていいよと新に告げる。
「ただの風邪だと思うよ。……解熱剤渡しておくけど、明日も熱が続くようなら病院の方に来なさい。……千早ちゃん、滅多に風邪も引かないからあんまり自覚なかったようだねえ。はっはっは」
 千早にスポーツドリンクを差し出しながら原田は豪快に笑う。
「ありがとうございます、原田先生。……あ、千早んちの人に電話すんの忘れとった……って、おれ番号知らんのやった……千早、ちょっと携帯貸して。家の人に迎えに来てもらうで」
 安心した途端、連絡を失念していた事をようやく思い出した新は「抜けてるなあ」と頭を掻く。
「……いいよ、新。……お母さんもパートだから、私自分で帰るし……」
 起き上がろうとする千早を新と原田が同時に制した。新は「今動かしていいのか」と原田に視線で問うと、原田もごく小さくかぶりを振って「今は寝かせておけ」と伝えてくる。
「ほんなら、千早のお母さんの携帯にメールだけ入れといて、後でおれ送ってくで。ほやで、今は寝ときね。……先生、千早が今食べたらアカンもんってありますか?」
「ん? 特にはないよ。ただし水分はこまめに補給する事。……それじゃ私はそろそろ病院に戻るかな。千早ちゃん、お大事に」
 よっこらせ、と原田は畳から立ち上がる。新は原田を玄関の外まで送りに出た。

 「原田先生、ありがとうございました」
「いやいや。……メガネくんこそ、講義すっぽかして平気かい? ……私は立場上、積極的にサボれとは言えないけど、単位に差し支えがないなら、付いててあげると安心するだろうね。……千早ちゃん、あれで結構寂しがり屋だからねえ」
 原田はどこか遠くを見るような目つきでそう付け足した。その表情から新は、今原田が言ったのは多分もっと昔の千早の事だと察する。そう言えば昔、団体戦になんか出ないと泣きそうな声で言った千早が白波会にが顔を出さなくなった理由を巡って太一と喧嘩になった事があった。
「はい、そうします」
「うん、じゃあまた練習で。二人揃って出てくるのを待ってるよ」
 そう言うと原田は駅へ向かってのしのしと歩き去った。原田の後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、新は部屋に戻る。千早は布団の中で身体を起こし、スポーツドリンクを飲んでいたようだった。

 「千早、気分どうや?」
「……ん、先生に貰ったコレ飲んだから、少し楽……」
 熱が高かったせいで相当喉が渇いていたのだろう。さっき手渡されたばかりのペットボトルは半分近く空になっていた。
「ほんなら良かった……あ、ほやった。千早のお母さんに連絡入れとかなあかんのやった。携帯、鞄のポケットか?」
「それぐらい、私自分でやるよ……」
 新の手から携帯電話を取り上げて、千早はメールを打ち始める。本音を言えば大人しく寝ていて欲しいが、確かに人の携帯をあまり勝手に触りたくないという気持ちもあって、新は千早に連絡を任せることにした。
「あ、ここの住所とおれの携帯番号も伝えといて。おれんとこで寝てるっちゅうても、よう知らんとこではやっぱ心配やろうし、千早かって自分の家で休む方がやっぱいいやろ」
「ん……文面、これでいい?」
 千早はメール画面を見せてきた。「熱が出たから、新がアパートまで負ぶってくれて、原田先生を呼んでくれました。新のアパートの住所と携帯です」
「……ちょっと付け足していいか?」
 千早の打ったメールの文末に、新は千早が大学で倒れた事と、学校から一番近いのが自分の部屋だったため連れてきた事、往診してくれた原田先生によれば風邪だという事、そしてまだ熱が高いため夕方までここで寝かせておくのでいつでも連絡して下さいと書き足して送信した。
「さ、メールしたんやで、もう寝とかなあかん。暖(あった)こうして、汗かかんと熱下がらんが」
 横になった千早の肩口まで掛け布団を引き上げ、首回りの隙間を塞ぐように押さえた。

 「ね、新……」
 首まで掛け布団に埋もれた格好で千早が名を呼んできた。
「ん、なんや?」
「さっき、お布団……トントンってしてくれたの。……あれって、何かすごく、落ち着く」
 熱のせいか、千早の口調がいつもより幼い感じがする。新は片手をそっと伸ばし、さっきと同じように掛け布団を一定のリズムで静かにトントンと叩く。
「……ゆっくり、休みね。……おれ、ここに居るで」
「……ん……あらた……ありが……」
 言い終わるより先に千早の目蓋が落ち、静かな寝息が聞こえてきた。千早が完全に寝付くまで、新はテンポを崩す事なく千早をあやし続けた。



乱り風(みだりかぜ)=風邪の古語です



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written by Hiiro Makishima