物をこそ思へ 4
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新が慌ただしく出て行った後の部屋で、千早は床に座ったまましばらくの間動けずにいた。 (……思い切って話せたけど……どうしよう、何か今になって、すごく恥ずかしくなってきちゃった……) 買い物から戻った新を一体どう迎えればいいのかと俯くと、畳の上に並べたままのかるた札が目に飛び込んできた。 「あ……札、片付けないと……」 気持ちがこれだけ上擦っていても、取り札を仕舞うのだけはいつも通り滑らかに手が動く。その事が少しだけ千早の緊張を解いてくれ、箱を本棚に仕舞うためにやっと床から立ち上がれた。 「……ふう。……今いろいろ考えても、しょうがない、よね」 さっきのキスも正真正銘、生まれて初めての事だったが、千早自身一杯一杯すぎて何も考えられなかった。それに本当の「初めて」はむしろ今から始まる。自分がどうなるのかなど分かる訳もない。 (でも……新はちゃんと、言ってくれた。だからきっと、怖くなんかない) そう心の中で呟いて、千早は浴室に移動した。 混合栓を捻る自分の手が少しだけ震えている気がする。勢いよく出だした湯を頭から被り、身体を洗う。ふと視線を動かした時、湯気で煙った鏡に裸の自分が映っていた。 (……昔は、友達に性別なんか関係ない、私も新もおんなじだ……なんて思ってたっけ。……いつ頃からそうじゃない、って思うようになったんだろう。……新から見た私は、いつ頃から女の子に見えてたんだろう……) さっき強く抱き締められた時の腕の強さや、自分が腕を回した時感じた背中の広さで、千早の中にも自分が女で、新が男だというはっきりした実感が沸いた。それを思い出した時、かつて一度だけ新に強く抱きかかえられた記憶が脳裏に蘇った。 『あかんて、じっとせな! ……試合には戻れんのや』 顔を見た途端まだ試合中だったと思い出して、制止を振り切ってまで会場に戻ろうと藻掻く自分を押さえ込んだ新。熱のせいもあっただろうが、あの日、新の腕の中に居た事を千早が気にした事はない。ただ新は大泣きした自分に酷く手を焼いただろうと思いはしたが。 「でも今日は、違った……。自分と違う身体のつくりなんだ、ってはっきり分かって……。その違った身体に抱き締められたのが、多分、嬉しかったんだ、私……」 そう口にする事で、自分自身女として新を求め、新に求められたいという思いがあると気付く。鏡に映る自分の肩に貼り付く長い髪を見ているうちに一つの歌が口をついて出る。 「……『長からむ心も知らず黒髪の』……ほんと、ぴったりだ。新の気持ちが変わったんじゃないか、なんて。そのまま聞けば良かったのに、送り札で遠回しに分かってもらおうとかして……」 けれど新は、抱えていた不安全てに正直な答えを返してくれた。指切りをしてくれた小指に唇でそっと触れる。 「……ありがとう、新」 元々望んだのは自分なのに、新は「おれから言わせて」と照れを押し隠して言ってくれた。だから全て委ねたいともう一度心を決めた。 脱衣場に出た千早は手早くバスタオルで身体を拭く。髪の水気をタオルで取りながら、着替えないでタオルだけを巻いた方がいいのだろうかと一瞬思ったが、やはり流石にそれは躊躇われた。 「いつも通りが一番だよね」 まだ湿っている髪をお団子にして、自分の鞄から着替えを取り出す。 「汗かく部活で、ラッキーだった……の、かな?」 良く着ているシンプルなトップスとショート丈のキュロットスカート姿になって、和室へ戻る。普段は大抵オーバーニーソックスを合わせるが、今日は素足のまま練習着を鞄の中に片付け終わった時、玄関の鉄扉がゆっくり開く音が千早の耳に飛び込んできた。 「あ……お帰り、新」 「……うん。あ、悪いけどもうちょっとだけ、待っての。……おれも汗かいた」 部屋に戻ってきた新は本棚の上にレジ袋を置いてから、押し入れの衣装ケースを開けて自分の着替えとタオルを取り出す。 「すぐ戻るわ。……ほやった、札片付けといてくれて、ありがとう」 律儀な礼の述べ方は新らしい。千早はこくりと頷いて、浴室に消える新の背中を眺めた。 「あー……変な汗かいた……」 脱衣所で服を脱ぎながら、新は独りごちる。あんな風に千早に大見得を切って出かけはしたが、薬局の商品棚でいざ実物を目の当たりにすると、何を基準に買えばいいのかまるで分からず、かと言って店員に尋ねる事も出来ず、店を出るまで自分の挙動は誰が見てもかなり怪しかっただろうと思ってしまう。 (おれ、どんだけ自意識過剰なんやし? そのせいで不安がらせつんたのに……。もっと成長せんと、あかん……) かるたの強さだけではない。千早が安心して心を委ねられる、そういう男になりたいと今日の事で痛感した。もっとも浴室に足を踏み入れた時の空気がまだ暖かかっただけで、それが千早の温もりのように思えて落ち着かなくなるようでは、望んだ通りの自分になるのは簡単な事でもなさそうだった。 「……ああ、あかん。要らん事考えとったら、千早が湯冷めしてまう」 頭の中をぐるぐる回り続ける考えを振り払うように勢いよく混合栓を捻った。 (とにかくや。さっき千早は約束してくれた。嫌やったらそう言ってくれるって。……おれは、千早のその判断を最優先にする。……よう笑って、よう泣くのは千早の魅力やけど、おれの態度のせいで泣くのは、もう見とない) 自分は男なのだから、欲求の収まりがつかないなら千早が帰宅した後なりに自分でどうにかすればいい。そんな風に開き直って考えたのが良かったのか、少し気持ちが楽になったように思う。 「さて……と」 大急ぎでシャワーを浴び終えて、新は浴室を出て服を身に着ける。そんな動作の一つさえもが、何か大仕事のように感じられて新は自分自身の大仰さに苦笑を浮かべた。踏み出す足が少し震えるのを急いで帰ってきたせいにして、新は廊下と和室を仕切る襖を静かに開けた。 |