物をこそ思へ 3
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腕の中に抱いた千早の目蓋がゆっくり下りていくのを見て、新は不意に喉が渇いたような感覚に襲われる。つい焦りそうになるのを懸命に堪え、柔らかそうな唇目がけてゆっくり顔を寄せていく。千早の鼻先が頬に触れただけでも頭の中が蒸発しそうだった。 「……っ、……」 ついに新の唇が千早に辿り着く。その暖かさと柔らかさ、初めて知ったそれら全部が新を惹き付けて止まない。唇を重ねている間の呼吸をどうしていいか分からず、荒くなった息を千早の顔に吹きかける事もやはり気になって、我慢できる間は息を止めておく事にした。 「……はぁっ……、ごめん、新」 不意に千早が唇を離して詫びてきた。大きく何度も深い呼吸を繰り返している様子から、千早も今のキスの間ずっと呼吸を止めていたらしいと分かる。 「おれも、息続かんかったんや。ほやで、お相子やし……」 「……うん」 照れたように笑いながら、片方の耳にサイドの髪をかける仕草に新の心臓が高鳴る。もう一度キスをしたいと思うのに、顔がどんどん熱くなって言葉が出ない。 「……新?」 「え?」 千早が訝しそうに自分を見ている事に気付き、新の赤面が一層酷くなる。 (いや……ずっと何も言わんくて、千早を不安がらせたのは、おれや。……カッコつけんと、正直に言わんとあかん……) 「あの……さ、千早。実は、おれの中でも矛盾してる事なんやけど……聞いて、もらえるか?」 「うん」 全く淀まない千早の返答に新の気分も幾分軽くなる。言った通り矛盾しているだろうし、話として纏まってもいないだろうが、心に浮かんだままを新は少しずつ言葉にし始めた。 「さっき、キスしたが? おれも、生まれて初めてやったけど……やっぱ、思っつんたんや。もっと……その、したいって。他の事とか。……ほやけど、そういう事……していいんか、っていう気持ちもあるんや」 新はつっかえながら、自分自身の欲望の限度が分からないと告げる。 「おれ多分……って言うか絶対、もっぺんキスしたら自制心どっか飛んでまうやろうし……途中で止めれる自信もないんや」 千早は黙って耳を傾けてくれている。 「……おれの気持ちのどっかに、千早にはそのまんまで居て欲しいって思ってるのもあるかも知れん」 話していて新もようやく思い至った事だが、転校して真っ先に自分のかるたを支えてくれ、その後もその真っ直ぐさで何度も気持ちを救ってくれた千早の事を、新はどこか神聖視───と呼ぶには大袈裟かも知れないが、特別という言葉だけでは収まりきらない感情を持っていた。 そのせいか恋人同士となった今も千早には清いままで居て欲しいと願う部分があり、自身の欲求で先に進むのはそんな千早を穢す事になると考えていたのかも知れない。新はなるべく率直にそう告げた。 「私、そんな立派な人間じゃないし……私も新には、何度も助けてもらってるよ」 「……うん。ほやでおれも、以前は……おれが一人前なって、色んな事ちゃんと責任取れるようになってから、……って、ほんな風に思ってたけど……。単に、意気地がないだけなんかもの」 新は溜め息とともに口を閉じた。 「……新、ちょっとだけ……狡いよ」 ぽつりと言われたそれに新の背中が竦む。 「なんか最終的に私にゴリ押しさせてるみたいに思っちゃう。……私だって、初めてなのに……」 けれども持ち前の素直さと負けん気を発揮したのか、千早は思い直したように強い視線を新に向けた。 「……なんか、勝てんなあ。千早のそういうとこ……」 ようやく新は苦笑を浮かべた。 「一つだけ約束して欲しいんや。……嫌やって思ったら。絶対そう言って。何やったらおれを殴ったかっていいし、大声出してもいい。噛み付いたかって構わん。千早がもうそれ以上は無理って思ったら、絶対我慢せんと伝えて欲しいんや」 それを告げる新の表情は試合の時同様に真剣だった。 「……うん。その時は、言うよ。……でも、そうやって新を止める事と、嫌いになる事はイコールじゃない。……て言うかね。私もちょっとだけ、不安なの。……途中で止めたら、新が私の事嫌いになるんじゃないかって」 頬を紅く染めながら千早は答えた。新はその不安は自分こそが抱くべきだと言おうとしたが、千早が欲しいのはもっと明確な言葉だと思い直す。 「ならんよ。……ちょっと、片手……貸して」 首を傾げながら手を差し出してきた千早の小指に、新は自分の小指を引っかけた。 「約束」 二、三度大きな瞳が瞬き、それから千早の表情がゆっくりと解れていった。 「えっと、千早。良、かったら……先に使って、シャワーとか」 どう切り出そうかと散々迷った挙げ句、新の口からやっと出たのはそんな平凡極まりない一言だった。 「……え、新が先でいいよ。ここ、新んちなんだし……」 そう言った千早にしても、浴室から一体どんな格好で、そしてどんな顔でこの部屋に戻って来ればいいのかと迷ってしまう。 「や、その間におれ、薬局行っとく。……今日使うかどうかは分からんけど、こういう話した以上は、持ってえんとあかんやろうし」 猪熊六段が五連続クイーン位防衛を果たせなかった時、本人もまだ気付いていなかったらしいが、長男をお腹に授かった直後だったという。当時の彼女は既に結婚していたが、今の千早を同じ状況にさせる訳にはいかない。新はその事だけは強い口調できっぱりと言い切った。 「……まあ、どんな顔して帰って来たらいいんか分からんのは、おれもやけど。……とにかく、ちょっと出てくるで、おれので良かったらタオルとか着替えとか、好きに使って」 「う……うん。じゃあ、えと……い、行ってらっしゃい……」 「あ……あ、うん。……ほんなら、すぐ戻るし……」 立ち上がってジーンズのポケットに入れた財布を確認した新は、ふと思い出したように振り返ると耳まで真っ赤にして「行ってきます」と言葉を返して、ばたばたと玄関を出て行った。 |