保湿系トライアルセット

むらさめの 7



 「……ねえ」
 学校の課題として書いた短歌への返歌を貰った照れが落ち着いた頃、千早が口を開いた。
「せっかく一緒にいるし、かるた、しようよ」
 言うと思った、と新は小さく笑う。
「……家の人の迷惑ならんのやったら、いいざ」
 千早は大丈夫とにっこり笑って返してきた。聞けば、毎日リビングでクイーン戦や高校選手権決勝のDVDを再生させながら取っているという。
「試合の方が先に終わっつんたら、その先取られんやろ? CDとかの方がいいんでないんか?」
 DVD再生では毎回札が読まれる順番も同じだ。あの古いアパートで初めて一緒にかるたを取った時、その不公平感をなくすため、新は過去の試合などで録音した読みのテープの中から、最近あまり聞いていなかった物を選んで使った。そう話すと千早は頷き、机の引き出しから昔誕生日に買ってもらった専任読手の朗詠CDを取り出す。
「じゃあ、これ」
「ん、分かった」
 千早が先導する形で、二人は階下に移動した。

 「お母さん、新のスーツって、まだ乾かない?」
 台所に居る母に千早が声を掛けると、千恵子は少し困ったように頷いてきた。やはりもう少し時間がかかるらしい。
「乾くまでの間、新とかるた取るから。良かったらお母さん、見てて」
「……すみません。音あんまり響くようやったら、言って下さい」
 一礼して二人は向かい合わせに正座した。
「新、服それで動ける?」
「平気や。ありがとう」
 短く答え、千早が床に置いた札を一緒にかき混ぜる。二十五枚ずつを取って開き、暗記時間を取った。
「……あら、始めないの?」
 二人が動かない事を千恵子が不思議そうに尋ねてきた。
「あ、はい。試合の前は十五分の暗記時間を取ります。この間にどう場が変わるかとか、どう取って何送るかとか……そういう事をお互いに頭ん中で描いてくんです」
 新は札から顔を上げて答えるが、千早の方は完全に目の前の五十枚に意識が集中しているらしい。千恵子に軽く頭を下げて新も札に向き直った。

 「……二分前です」
 千早の一言で、新は何度か素振りを始める。普段はそこまでしないが、千早の家のフローリング床でどの位動けるのか、また振り抜いた時音がどの程度響くのか確かめておきたかった。
(……うわ、結構響くかも知れんなあ……。大丈夫やろか?)
 渡り手の体重移動もそうだが、千早と自分とでは当然ながら体重差がある。普段千早が単独で取っている時以上に響くのは間違いなさそうだが、千早相手に手を抜くのは絶対嫌だ。さっき言った通り、響くなら止めて貰うしかないだろうと、新は千恵子に下駄を預ける事にした。
「始めます。……お願いします」
 互いに一礼し、身体の向きを変えて本来なら読手が居る筈のCDデッキにも頭を下げてから正面を向く。千早の手がデッキのリモコンを操作しはじめた。
『難波津に咲くやこの花冬籠もり───今を春べと咲くやこの花──』
 序歌が流れる中、新と千早はそれぞれ構えに入る。

 「……」
 キッチンにある背の高い椅子に腰掛けたまま、二人の様子を見ていた千恵子の目がどんどん見開かれていく。さっき話していた時、この新という少年は礼儀正しいがかなりの照れ屋だという印象が強かった。それが今、札を挟んで対峙する姿はまるで別人のように堂々として見える。
(……さっきは、二人してあんなに真っ赤になってたのにねえ……)
『───なつのよは』
 スピーカーから最初の一枚目の音がしたかしないかのうちに、二人の手は素早く動き札が飛んだ。新が立ち上がってそれを拾いに行こうとすると、千早も床から立ち上がる。
「え、今のって私でしょ?」
「……どうぞ」
 そう言って譲る様子も、本人の口から語られた小学生時代のような内気さからではなく、一枚二枚に拘らなくとも勝てるという風格のような物さえ感じられた。
『しらつゆに───』
 次の一枚が読まれた時、千恵子がさっき感じた風格、のようなものが裏付けられたように思える。娘の千早も素早く動いたのに、それより一瞬早く新の長い腕が千早の側にあった札を左右に弾き飛ばしていた。
(……ほんと、不思議だわ。千早も、綿谷くんも……着てる物はさっきと同じなのに……)
 一瞬の弛緩も許さない真剣勝負を、二人が心から楽しんでいるのが千恵子にもひしひしと伝わる。とうとう最後の一枚まで、千恵子は椅子から動かず試合に釘付けになっていた。

 「ありがとうございました」
 二人が試合終了の礼を交わした事で、ようやく千恵子も我に返る。腕時計を見ると一時間近く夢中になって二人のかるたを見ていたようだった。千早と新の間に残っている札は、たった一枚きりで、残りはお互いの背後に積まれていた。
「く、やしいーっ!」
 千早の手元に残ったその最後の一枚は、終盤になって新から送られた札だった。それがとうとう運命戦まで残ってしまい、そして読まれずに残ってしまった。千早は手の平で何度か床を叩いて流れを読み負けた事を悔しがっている。
「流れ読むのも引き込むのも、経験積まんと得られん」
 負けた千早に対して新は慰めるような言葉は口にしない。また千早も、煽るような新の口調にきっと顔を上げて正面から視線を合わせていった。
「経験って言うんなら、もっといーっぱい取って積むもん!」
「ほやな。またかるた、しよっさ」
 新のその一言でようやく千早の表情が普段のものに戻った。

 「……凄いのねえ。千早もかるたの時は普段と違って見えるけど、綿谷くんは何だかもっとずっと……貫禄があるように思ったわ」
 千恵子が感想を口にすると、とたんに新の耳が真っ赤になった。
「時々、両方の札を取ってたみたいに見えたけど……そういうのも、あるの?」
「あ、はい。渡り手って言います。……かるたのルールって実はかなり単純で、相手より先に当たり札を直接触るか、競技線……ええと、最初に並べた四角いエリアから外に出せばいい、ってだけなんです。他の札巻き込んで出しても、当たり札がある陣やったら、どこ触ってもお手つきになりません」
 かるたの話なら、新はいくらでも雄弁になれる。千恵子に理解してもらいたい、と極力かるた用語を平易な言葉に置き換え、身振りを交えて自身の得意技「渡り手」について説明していった。
「新ってやっぱり、説明上手いよねえ。私ついさ、感覚的に言っちゃうし」
 千早が肩を竦めて言ってきた。
「……部で後輩とかに教える時もか? ……まあ、目の前で実演つきやったら、体感しやすいかも知れんけど」
 それでもその「感覚的」な言葉を通訳する人間が必要な気がする。そう新が言葉を継ぐと千早は頭を掻きながら苦笑いを浮かべてきた。
「あはは……実は、大当たり。先生目指すんなら、そこも直していかないとって思ってるんだけど、つい」
「個別に指導するんやったら千早のやり方もいいって思うけどの」
 新自身かつて、千早と太一に特訓と称して取りの細かな部分は実演つきで教えた事がある。だからケースバイケースだろうと言うと、千早は真面目に頷いてきた。

 ようやく乾いたスーツを千恵子から受け取った新は千早の部屋を使わせてもらい着替え直す。
「……あれ、ネクタイしないの?」
 廊下で待っていた千早は、着替えて出てきた新に開口一番それを問うた。
「うん、結ぶの慣れてえんし」
 学校の制服も詰め襟の新にとってネクタイ結びは不慣れな事だ。実は今も途中で手順が分からなくなったから、片手に畳んで持って出てきたのだが、それを千早に言うのはやはり恥ずかしかった。
「貸して? 私んとこ制服にネクタイあるし」
 千早が新の手から白いネクタイをぱっと奪い取って襟に回す。何度かタイを重ねては外した後、千早が溜め息を吐いた。
「……向かい合わせだと混乱しちゃう。ちょっとごめんね」
 言うなり千早は新の背後に回り、肩越しに腕を回して学校の制服と同じようにタイを結び出した。
「え、ちょ? ……そこまでせんでも、いいって……」
 背中から抱きつかれるように密着されて新は硬直してしまう。
「んー、もう出来るよ? ……はい、完成」
 そう言って千早が背中から離れ、新は気付かれないよう息をそろそろと吐き出す。それでいて密着が解けた事を心のどこかで勿体なく感じている自分を持て余しそうな気分だった。
「あ、えっと……ありがと、の……」
 もごもごと礼を述べ、さっきまで借りて着ていたスウェットを紙袋に仕舞い込んだ。

 「長居して、すみませんでした。失礼します」
 玄関先まで見送ってくれた千恵子に、新は深々と頭を下げる。福井に帰ってから送り返すのは手間になるでしょうからと、どこにでも売っていそうなビニール傘を手渡してくれた。洗って返そうと思っていたダディベアのスウェットスーツも、結局千恵子に洗濯機の中に入れられ、恐縮して何度も礼を口にしたぐらいだ。自宅に戻ったら、お礼として何か送ろうと決めた。もっとも新が選ぶと自分も好物だから、と大抵は羽二重餅になるのだが。
「ありがとうございます」
「気を付けてね、新」
「うん。傘貸してくれて、ありがとう。ホテル着いたらいっぺん、メールするわ」
 二人にもう一度頭を下げてから、新は駅へと歩き出す。その背中にお休み、とよく通る千早の声がかかり、新は肩越しに振り返って小さく手を振った。その手に傘から雨粒が落ちる。
「……雨も、案外悪くないかもの」
 初めて千早とかるたを取った日も雨だった。そんな風に思えばこの天気も好きになれそうな気がして、新はふっと笑った。









written by Hiiro Makishima