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No Regret in Tokyo 8

新の春休み



 千早を自宅に送り届けて、新はホテルの部屋へ戻る。あちらこちらと結構歩いたせいか、風呂を使っていると軽い眠気に襲われた。
「ようけ喋ったしなあ。……まあちゃんと疲れ取っとかんと。明日は千早とかるたやし」
 これが他の事なら、個人戦にエントリーせず千早が優勝して推薦入学の権利が得られる確率を高くしてもいいと思うのだが、かるたとなれば話は別だ。それにそうした手心の加え方を千早は絶対喜ばないだろう。
「他の大きい大会では推薦取れんのかの。千早かって吉野会大会で優勝してるんやし、団体戦も瑞沢のエースとして頑張ったんやし……」
 南雲会の誰かに聞いてみようか、と湯船の中でふと考えた。
「あー……ほやけど千早、国公立でないとアカンって言うてたか。……まあ一応、聞くだけ聞いてみるか」

 姉の千歳が芸能コースのある中高一貫校に進学した際、夜に両親が学費の事を話しているのを物陰で聞いてしまった千早は、自分の進学先は全て公立と決めたらしい。親の負担を軽くしたいという思いもあったそうだが、それより何より姉を応援したかったというのが、かるたを知るまで「姉が日本一になるのが自分の夢」と言っていた千早らしいとは思う。
「姉妹って、そういうもんなんかの。……おれ一人っ子やで、そこら辺の気持ちは想像するしか出来んけど……」
 最近になって自分に兄弟が居ないのは、勿論祖母の病気もあっただろうが、祖父と父がかるたを巡って意見を対立させていたためかも知れない、と思う事も増えた。弟子の大会出場費に実の息子の給食費を無断で充てたりしていた話は父から聞かされている。新の弟か妹を、と思っても経済的に難しいと両親は思ったのだろうか。
「今は難しい事あんまり考えんとこ。……まずは明日の練習や」
 新は風呂から上がり、明日に備えてベッドに潜り込む。捲り上げたシーツから仄かに千早の残り香が鼻をくすぐり、否応なしに日中の記憶を蘇らせる。
「あ、ヤバ……」
 ついつい反応し始める自分の身体に眉を顰めながら新は眼鏡を外して照明を落とした。

 ◇ ◇ ◇ 

 楽しい時間ほど早く過ぎ去る、と世界で一番最初に言い出したのは誰だろう、と新は夜行バスの窓の外を流れる夜景をぼんやり眺めながら思う。
(大会で顔合わせる時は、こっちも試合に集中してるで、ほんな事考える暇もないけど……今は違うしなぁ。千早と会えて、一緒にかるたも出来て……。会うた、どころの話ではないわの、実際。……我ながら、思い切った事しつんたけど……後悔はしてえんし、おれ、今……すげえ幸せやって思うもんの)
 朝から合流した千早と五試合取れた事は、新にとっても大きな収穫でもあった。元から抜群の「感じ」の持ち主ではあるが、いくつもの大会を経て千早の「聴き分け」はさらに厳しくなっていると知った。音への反応も十分早いが、聞こえて即座に出るというより、力をぐっとためて加速した手を札の縁へ正確に持って行っている。
(速さの質で言うたら、おれの加速に近いもんがあるんかの。次に公式戦で当たったらマジで厄介やろうな)
 そんな風に考えながらも新の口元には笑みが浮かんでいる。おれもまだまだ強さを磨くざ、と心の中で東京方面の空に向かって呟いた。

 芦原温泉駅の駐輪場から自転車を引っ張り出してきた時には、東の空はすっかり明るくなっていた。
「ん、うーん……やっぱバスの座席やと窮屈で足パンパンや。……学校、春休みで良かったわ。こんなんで登校したら絶対授業中寝てまう……ふわぁ……」
 大きく欠伸を一つして自転車に跨ると自宅へ向かって勢いよくペダルをこぎ始める。
「ただいま」
 早朝だが、仕事に出かける両親はもう起きているだろう。新は東京で買った土産を手に台所へ向かう。ガラスの引き戸を開けると思った通り、母親が朝食の準備をしている所だった。
「あら新。今帰ったんかー。東京、どうやった?」
「うん、ただいま。結構色々収穫あったわ。……あ、これお土産」
 テーブルの上に土産物のお菓子を置くと、母はパート先で皆に分けると言ってにっこり笑った。

 二階の自室に上がって荷解きをしていた新の手が止まる。
「あー……ほやった。これ、どこ隠しとこ……」
 ドラッグストアで緊張しきって買った、箱入りのコンドームの存在をすっかり忘れていた。東京のホテルでも、帰ったら考えようと先延ばしにしてしまったが、帰宅したところで急に名案が浮かぶ訳でもない。
「衣装ケースん中で見つからんやろか……?」
 試しに一段を引き出してみて、洋服の下に紙袋ごとしまい込んでみる。
「び、微妙やな……ほやけど、まあしゃあないか」
 いつまでもその紙袋を手にしていると、ついついホテルでの事を思い出してしまいそうで、新はもうこれでいい事にして他の荷物を片付け始めた。
「……あ、これがあったんやったな」
 百貨店で千早に買ったつもりが、お揃いで一本ずつ持ち合う事になったダディベアのシャープペン。ノックの部分には新の目にはどうにも微妙にしか思えないベアの頭がついている。
「千早は学校で使うんかな、これ」
 後でメールででも聞いてみようか、とふと思い、そんな事を考えた自分に少し驚いた。
「南雲会の練習あるし、仮眠しとくかな……あ、その前に千早に帰ったってメールしとこ」
 手早く携帯を操作して千早に無事帰宅した事を知らせる。既に起きていたのか、千早からもメールがすぐに返ってきた。
『新、長時間の移動お疲れ様! 春休み終わったら新学年。新入部員獲得、お互いに頑張ろ! 志望校絞り込んだら、新にすぐ教えるから。……シャープペンは勿論使うよ? 学校でもどこでも。またいつでも電話してね! ◇千早◇』
 文面を読んでいるだけで千早の、あの生き生きとした表情と声が感じられて、新の表情が綻ぶ。千早が普段使いにするなら、自分もメモ用に持ち歩こうか、とスポーツバッグのポケットにシャープペンを差した。

 ◇ ◇ ◇ 

 春休みが終わり、三年に上がった新は東京で千早から聞いた創部時の頑張りを自分もやってみよう、と早速行動に移し始めた。まず職員室へ向かい、体育教師の菅野や、掲示物を管理する教師の机に向かう。
「先生、コピー機貸して下さい。ほんでコピーしたのを掲示板とかに貼りたいんですけど、いいですか」
 新は「競技かるた部・部員募集」のチラシを校内の掲示物を管理する教師に見せる。元々かるたが盛んな土地柄と、昨年夏の個人戦A級優勝や西日本代表という新の実績や祖父のネームバリューでチラシ貼りは案外あっさりと許可が出た。コピー台に置いた最初のチラシは、千早が瑞沢高校で貼っていた物を一枚分けてもらい、千早のクラスと氏名が書かれていた部分だけ上から紙を貼って訂正したものだ。
「菅野先生、部が出来たら顧問になってもらえませんか……先生A級やし」
「ほら構わんけどぉ、人数もやけど練習場所確保せんと、どもならんざ(どうにもならないよ)?」
「……探してみます」
 校内で畳敷きなのは武道場ぐらいのものだが、そこは柔道部が使用している筈だ。部活のない日に借りられないか聞いてみよう、とコピーを終えた新はチラシの束を手に職員室を後にした。
(千早んとこは確か、昔生徒会が使ってた部屋に畳持ち込んだんやったな。うちの学校にほんな空き教室ってあったかの……)
 昔に比べれば生徒数は減っていると聞いてはいるが、全く使われていない教室は果たしてあっただろうか。
「や、曜日ごとに他の部の部室渡り歩くんでもいいわの。軽い畳か、最悪初めはゴザ使ってもいいし」
 祖父から教わった「心をリラックスさせる」ために新が考えついた「マイナス思考は意地でもしない」はここでも役に立った。

 「さてと」
 教室に戻る廊下の途中にあった掲示板に早速一枚目のチラシを貼る。
「新、何してんにゃし? ……じきチャイム鳴るざ?」
 通りがかった由宇が訝しそうに尋ねてきた。
「部員募集のチラシや。やっぱ団体戦も出たいしの。……あ、ほやった。菅野先生が言うてた事、忘れんようにメモっとかんと……」
 新は制服のポケットから手帳とペンを取り出して、中に「練習場所の確保(畳が敷けるところ)」と書き込む。さっき思いついた他部の練習がない日に場所だけ借りられないか聞く事も忘れずに追記した。
「……あ、んた……何? そのシャープペン。新、今まで実用性だけで文房具買ってたモンが、どしたんやの珍しい……」
 ダディベアのシャープペンに気付いた由宇が目を丸くしている。
「い、いいやろ別に。……ほんな事より由宇、後輩に経験者居たら紹介してや。由宇も登録だけでもしてくれん? 練習は受験勉強の合間だけでもいいでさ」
 新の耳が赤くなっている事で、由宇には何となく理由の見当が付いたが、敢えてそれ以上問う事はせず、部への登録は「どうしてもあと一人が居なかったら」とだけ答えて教室に戻って行った。
「地区予選、六月やったな。……欲張るか。……千早みたいに」
 手帳とシャープペンを胸ポケットに戻して、新は自分の教室に急ぎ足で向かった。









written by Hiiro Makishima