保湿系トライアルセット

乱り風  3.5

千早ママによる「面談」編



 太陽が大分西へ傾いてきた頃、新の部屋のベルが鳴った。
「あ、こんにちは。……どうぞ、上がって下さい」
 新はドアを大きく開けて、千早の母を招き入れる。息づかいが少し乱れ、束ねているサイドの髪も幾筋かほつれている所を見ると、仕事から上がって本当に大急ぎでここまでやってきたのだと分かる。
「……それじゃあ、少しだけお邪魔させていただきます」
 千恵子も当たり障りのない挨拶を口にして靴を脱ぎながら、ちらりと周囲に目を配った。聞いた話ではこの春から一人暮らしをしているらしいが、掃除もきちんと行き届いていて、見た印象ではもう何年も自活しているような部屋にも見える。ドアに付けられた表札も手書きのようだが綺麗な字で書かれていた。
「あ……済みません、まだお客さん用のスリッパとかまで気が回らんかったんで……使ってるやつで申し訳ないんですけど、良かったらこれ使って下さい」
 差し出してきたスリッパも、本人もそう使わないのだろう。さほど使用感がある感じではなかった。

 新は千恵子を奥へ案内する。もっともワンルームの和室に小さなキッチンとユニットバスだけの部屋は、玄関からほんの数歩で生活スペースに辿り着いてしまうが。
「どうぞ、入って下さい。……千早、お母さん迎えに見えたざ?」
 新に促されて和室に足を踏み入れる。娘は布団の上で掛け布団ごと膝を抱えるように座っていた。千恵子は千早のすぐ近くに膝をつき、新は台所に近い部屋の隅の方に控えるように正座した。
「あ、お母さん」
 あっけらかんとした千早の言葉で、顔を見たら言っておいた方がいいと思っていた言葉が千恵子の頭から抜けてしまう。
「千早、具合はどうなの? 起きられそう?」
「うん。原田先生が来てくれたし、新がお昼作ってくれたから薬も飲んだよ。大丈夫」
 美味しかった、と千早が新に笑いかける。釣られて笑いそうになったが、新は思い直して表情を引き締めると、正座のまま千恵子の方に向き直り、床に手をついた。
「……あの、昼食べさせた後にそのまま家に帰すべきやったんですけど、……すいません。おれが、付いてたかったんです。……ご心配おかけするような事して、申し訳ありませんでした」
 言い切ると折り目正しく、額が畳に付くほど頭を下げた。

 「綿谷くん、顔を上げてちょうだい。……そのままだと、話も出来ないし」
 千恵子の声は新が予想していたより穏やかだった。
「まず、私からもお礼を言わせてね。千早が大変お世話になりました。学校で急に倒れて、きっと綿谷くんも驚いたでしょうに、千早の看病をしてくれて、本当にありがとうございました」
 千恵子のお辞儀も流石に年季の入った、美しい姿勢だった。
「いえ、そんな……」
 言いかけて新は口を閉じた。千恵子はまだ話したい事があると、表情が物語っている。
「ただ、千早はまだ未成年で、結婚前の女の子だって事を……ちゃんと弁えておいて欲しいのよ。綿谷くんが真面目な子だって言うのは分かっているんだけど、それでも心配になるのが親なの」
「はい。おれの考えが足りませんでした」
 新は逆らわずに答える。千早が何か言いたそうにしていたが、新は目線でそれを制した。
「ただ、おれは千早、さんの家の人にも、おれがどんな人間かって知ってもらいたいって思ってます。図々しいかも知れませんけど、おれと一緒に居るんなら大丈夫や……って言ってもらえるようになりたいって、そう思ってますし、そのために知りたい事があれば、全部正直に話すつもりです」
 まっすぐに千恵子に目線を合わせて話す新の姿は、静かだが試合の時のような雰囲気がある、と千早は思う。千恵子の方が気圧されたのか、口元に手を当ててふっと短く息を吐き出した。

 「……綿谷くんはずっと自炊なの?」
 ややあって千恵子の口から出た言葉は、少し意外なものだった。
「はい、大学入ってからです。……てんこな……あ、違う、大したもんは作れんのですけど、一応母から教わってはきました」
 気を抜くとつい福井弁が口をついてしまい、新は慌てて言い直す。
「福井のご両親は、何をなさってるの?」
「父は会社勤めで、母はパートで働いてます。社員の方がよかったらしいんですけど、祖父の……介護があったんで」
 祖父が倒れた時の事を口にするのはやはりまだ少し辛い。倒れた事も勿論だが、東京でやっと出来た友達との別れや、A級に上がる大会に出ていた時に一人で亡くなった祖父と、その事への罪悪感をどうしても思い出してしまうからだ。
「新……」
 事情を知っている千早が気遣うようにそっと声を掛けてくれた。
「大丈夫や。ありがとう、千早」
 新は千早に小さく笑んで返す。

 「……そう言えば綿谷くんは、いつも『ありがとう』ってきちんと言うわよね」
 以前雨に打たれたと千早に引きずられて家に来た時も、その事は印象強く千恵子の記憶に残っていた。
「おれが小さい頃から、祖父に常々言われてたんです。慣れてしまうと礼がつい疎かになるから、お礼の言葉は欠かしたらあかん、って」
 特に今の新は、永世名人の祖父と同じかるたの世界に身を置いている。選手であれ協会の役員であれ、周囲は大抵自分を「綿谷始永世名人の孫」とまずは見る。新本人はそれを重荷に感じたりはしていないが、祖父の名を汚すような言動は慎むべきという自覚は持っていた。
「……いつかはおれも、じいちゃん……祖父を越えたいですけど、名人にもなれてえんのでは……まだまだやって思ってます」
 衒いもなく新が言い切ると、千恵子は少し驚いたように目を見開く。ふと娘を見ると、その話を既に知っているのか穏やかにボーイフレンドへ笑みを向けていた。

 「綿谷くん、今度……うちに夕飯でも食べにいらっしゃい。今日のお礼も兼ねて。お姉ちゃん……千歳がお休みの時なら、みんな居るから」
 千恵子も二児の母としての人生経験を積んでいる。その母親としての勘が、新なら大丈夫だと言っているように思え、ようやく彼女の顔にも普段の明るさが戻った。
「え、はい。ほんならお言葉に甘えさせてもらいます。……ありがとうございます」
「お母さん、ありがとう!」
 千早は満面の笑みを浮かべて両腕で母の腕を抱きかかえる。
「千早がここに来る事も、別に反対はしないけど……一つだけ、約束してもらえるかしら」
「何でしょうか」
 新は姿勢を崩さないまま問うた。
「……間違いだけは犯さないでちょうだいね」
 その言葉が新の脳に伝わるまでしばらくの間があった。
「え? あの……、は、はい……」
 意味を理解した途端、新の顔は見事なまでに真っ赤に染まる。やはりこういう所は年相応だ、と千恵子は笑った。

 「じゃあ千早、そろそろお暇しましょう」
「あ、うん……。新、今日は色々ありがとう。服、洗って返すね」
 千恵子に促され、千早は床から立ち上がる。
「急がんでもいいざ。……あ、これ千早の服と、原田先生から貰った解熱剤の残り」
 千早が朝着ていた服を入れた紙袋を手渡す。
「じゃあまた、大学でね」
「うん。ちゃんと休んどきねや?」
 新は二人を見送るため、一緒に外の道路まで出る。結構話し込んだのか、千恵子が来た時西に傾いていた太陽はすっかり沈み切っていた。
「綿谷くん、どうもありがとうね。うちにも、遊びにいらっしゃい」
「ありがとうございます。……お休みなさい」
 駅がある方角へ二人が歩き出すのを見届けて、新は部屋に戻る。鉄扉を閉めて施錠すると、やはり緊張はしていたのか新の口から長い溜め息が漏れた。

 「なんか色々あった日やなあ……あ、素振りせな」
 完全にいつもの日常に意識を戻すには、日課をこなすのが一番だ、と新は布団からシーツを外して畳む。
「……わ……」
 日中ずっと千早が寝ていたシーツから、ほのかな残り香が新の鼻をくすぐった。千恵子の一言と相まって、つい放恣な想像が脳裏によぎりそうになる。それを追い出そうと何度も大きく頭を振ったせいで、くらりと目眩を起こしそうになった。
「ああもう……」
 シーツが目の前にあるのが悪い、と新は乱暴に丸めたシーツを洗濯籠に放り込んだ。
「あれ、メール来てる……って、千早か。……何やろ」
 件名には「質問」とあるメールを開いてみる。
『今度、沢庵の煮物の作り方教えてね。……それと、さっきお母さんが言ってたけど……”間違い”って何の事?』
(おれに聞くなや、ほんな事……)
「ああ、もう……」
 新はメールの前半についてだけ、「今度母ちゃんに聞いておく」と返し、後半の文章は見なかった事にした。
「今日は素振り、五百では足りんかも知れんなあ……」
 くたくたになるまで素振りをして、寝るのが一番だろう。新は取り札の箱を出してきて並べだした。










written by Hiiro Makishima