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千早は身体をくの字に曲げたままぐったりとしている。今度は太一がさっきの濡れタオルを手に、どことなく覚束無い足取りで洗面所に向かい、洗面台に湯を張ってタオルを浸し、ざっと洗ってから固く絞ってベッドに戻ってきた。 「太一、貸して。……ちょっと千早の髪に付いつんたんや」 「ん」 太一が軽く放ったタオルを新は片手で受け取り、千早の髪を丁寧に拭く。それからタオルを畳み直して背中を綺麗にしてやった。 「……さっきより目ぇ覚ますの遅くないか?」 新が訝しむ。太一は千早の手首を取って、脈を診てみた。 「脈拍は普段とそう変わってないっぽいけど……流石に二度……いや、風呂場の入れると三度か。そんだけいったら、疲れたろうな」 自然に目を覚ますまで、寝かせておこうと言い、シーツ代わりにバスローブで肩まで覆っておいた。 「何か千早に酷い事したんたな気してまうな……」 「……ん、まあな。おれらもこういう事の加減とか、分かんねえままやっちまったし」 ふっと男二人は溜め息を漏らす。 「ほやけど、寝てると……あどけないな、千早は。……神宮で倒れた時の顔しか覚えてえんかったで、こうやって静かに寝てるの見ると、ちょっとホッとするわ、おれ」 慈しむような視線を千早に送りながら、新は呟いた。 「倒れたって、高一の団体戦か。おれ試合中だったからさ、あの後どうしたか詳しい事知らねえんだ。……千早、一度ぐらいは目覚ましたのか?」 「うん……。ただ、自分が棄権したんや、って事がなかなか受け入れられんかったんやろうの。試合場戻ろうとして、少し暴れて……それ押さえてる間にだんだん、分かったんやろ。……凄く泣いて、泣いて泣いて疲れて眠るまで、おれの膝に縋っとった……」 元気が溢れかえるような普段の性格を考えると意外だが、根っからの真っ直ぐさを思えばあの号泣も納得できる。新は静かな口調で言った。 「……ほう言うたら、おれ二人に、福井帰ってからの事って何も話してえんかったっけの。……札蹴飛ばすとか、千早にはほんとに申し訳ない事したわ……」 近江神宮で二人の懸命な姿を見たからこそ、自分はかるたに戻って来れた。その二人にはやはり、中学生だった自分が何を思っていたか包み隠さず話しておきたいと新は今の思いを正直に伝えた。 「や、千早に服貸してくれたお隣さんが、ちょっとだけ話してはくれたよ」 「……由宇が?」 太一は頷き、新の話も日を改めてちゃんと聞きたいと言ってくれた。 「まあ……その子の話と、千早が言った事、それと……お前が自転車で追い掛けてきたから、おれは千早のかるた部作り、手伝おうって気になったんだ。……日本一のチーム作って、新を待とうって」 太一の口調もしんみりとしていた。 「ほやったんか。……けどほんで創部して二年で本当に日本一なんやで、瑞沢はやっぱ凄いチームやったんやって思うわ」 「……お前の台詞だったっけな。『日本で一番は、世界で一番』……おれさ、高校入ってすぐの頃は、もうかるたは止めようって思ってた。中学で同好会作って、B級には上がれてたけど、そうやって経験積んでくうちに、青春全部懸けたって新より強くはなれない、そんな風に思ってたんだ」 「全部懸けてえなんだ(いなかった)のにか? ……って言うか、今かってまだ青春やろに」 その一言に太一は小さく吹き出した。 「あの時……千早がA級になった試合見てた時な、原田先生に全く同じ事言われたよ。『懸けてから言いなさい』ってさ」 「原田先生、流石やなあ。……ほう言うたら原田先生と、翠北かるた会の北野先生って、何であんな仲悪いんやろの?」 新の問いに、太一は今度こそ声を立てて笑う。二人が仲違いした、三十年以上も前の出来事について太一がざっと話すと、新の肩も震え出した。 「……ん、なに……?」 二人の笑い声を聞いたのか、ベッドの上から千早のまだ少しぼんやりした声が聞こえてきた。 「千早、起きれそうか? ……風呂、入り直した方がいいかもな」 「あ、おれ行ってくるわ」 新が身軽にバスルームへ向かう。 「……私、どの位寝てたのかな……」 「そんな長くねえよ。五分か十分か……まあ、そんなとこ。おれらも喋ってたから大体、だけどな」 千早はゆっくり身体を起こした。 「どんな事、話してたの? さっき」 「ん? ……原田先生と北野先生が仲が悪いのはどうしてか、とか」 一瞬きょとんとした顔を見せた千早は次の瞬間、お腹を抱えて笑い転げた。 「なんや賑やかやの」 湯を張り直しにバスルームに居た新にも、会話は届いていたらしい。戻ってくるなり穏やかに口を開いてきた。 「だってだってー! 原田先生と北野先生のアレって、今はもう、何となくそうする理由を無理やり見つけてる気がするんだもん!」 「……って言うと、顔合わせた時に『ふんっ』ってやるための口実って意味か?」 千早は笑いながら頷く。確かに大の大人が年賀状が来なかったと言ってあからさまに不機嫌になるのは不思議と言えば不思議だった。 「私さ、原田先生達見てるとね。何となく新や太一も将来、あんなかなあ、って思う事あるんだあ」 「おれと太一が? 試合場で顔合わすたんびに、そっぽ向くようになるんか?」 興味深そうに新が問うた。 「って言うかね。一見仲悪そうなんだけど、実はお互い、相手の深い所一番理解してるっていうか。原田先生の試合、北野先生は大抵近くで見てるし、原田先生の膝が痛くなってくると、北野先生も何か心配そうに見えるよ」 「……仲良く喧嘩、って何かのフレーズにあったの、そう言うたら。……ほんな感じ?」 「おれは猫やネズミじゃねえぞ」 そう言いながら太一の口調には満更でもないという響きがあった。 「ぷっ……くく、おれ、今、思い出しつんた……ほら、Tシャツに字書いた時」 新が笑いながら告げた一言で、太一の脳裏にも懐かしい小学校の教室と、当時の新と自分の姿が浮かぶ。 「そう言やあ、蹴り合いながらチーム名書いてったっけ。……はは、なっつかしい」 「ほら、思った通りじゃん」 千早がどことなく威張ったように言ってきた。確かにある意味千早の言う通りなのかも知れない。 「まあ、ほれも悪ないって思うざ。……原田先生らみたいやって事は、おれらみんな、この先ずっとかるたやってくって事やろ?」 「……確かにな。おれが当分時間取れねえのは事実だけど、大会出られそうなら出るつもりだし」 新の一言に太一も賛同を示す。 「時間ない時でも、イメージするのは有効やざ、太一。……色んな状況思い浮かべてくと、札が教えてくれるんや。……勝つ方法」 「札が、か……それも、新の祖父さんが教えてくれた事なのか?」 「うん、ほうや。おれが小さい時からずっと言うてた。取りだけでのうて、勧学館にいる自分とか。名人戦では、名人が圧倒的に有利やからって」 当たり前だが名人戦で既に勝った経験がある名人と、その経験のない挑戦者では勧学館から受ける空気が違う。その経験の差を埋め、呑まれないようにするためのイメージの大切さを説いていたのだろう。新が試合中でも落ち着いている理由の一端が太一にも分かった気がした。 「おれらってさ、考えたらすげえラッキーだよな。新から永世名人の言葉色々聞けて」 「……ただの受け売りや」 照れたのか新は短く答える。 「うちの高校の先生がね、『私の中には先人から受け取った沢山の言葉がある、それを受け売りするために教師になった』って言ってたんだ。だから私もいつか、かるた始める子に受け売りしたいな、って思って今の学部に居るんだよ」 千早は高校時代の担任だった深作の言葉を新に話して聞かせる。 「そっか、千早教員志望やったっけ。……おれ、純粋に疑問なんやけど、千早、体育教師にはならんの? 運動神経いいのに」 新の質問に太一が吹き出し、千早は複雑な顔を見せた。 「……んと、それがさあ……。女帝……じゃなかった、顧問の宮内先生が『生徒が死ぬ事のない教科にしてください』ってご隠居に言ったらしくてさ……」 「あー……運動神経が良すぎて逆にアカン事もあるんか、ごめん」 「別に謝んなくてもいいよ。けど、名人戦かあ……それだけは絶対、二人と試合出来ないんだよねえ、私。……はあ……」 千早は深々と溜め息を吐くが、そればかりは二人にもどうしようもない。男女混合の大会は色々あるが、千早が言いたいのは直接対決出来る場という意味だけではないだろうから。だが敢えてそのニュアンスに目を瞑り、新は答えた。 「まあ当面は学生選手権かの。一回戦で当たったかって、おれは手加減せんでの。覚悟しときねやー?」 「今の言葉、そっくりそのままお返ししますー、だ」 いつもの千早の強気さが戻り、新はふっと笑む。 「ま、かるたの前に風呂やな、今は。……そろそろ一杯なるやろし」 「はは、でっかい事の前に目の前の風呂が先、みたいなのは実際あるよな。……おれ、止めてくるよ」 太一が笑って立ち上がると、千早と新もその後に続いた。 友人であり恋人であり、ライバルでもある、この「共有」関係がいつまで続くのかは誰にも分からない。それでも「その時」が来るまで、二人の手を離したくないと三人は心の中でそれぞれ思う。 「……ん?」 その思いを表すかのように、千早は二人の手をそっと握る。新と太一はその手を優しく握り返して、自分も同じ気持ちだと言葉ではなく千早に伝えた。 |